九章 三
執務室で行儀悪く椅子に座り文を読んでいた費禕は、静かに訪れた来訪者を視界に入れて軽く笑った。
「……まあ、来るだろうなとは思っていたさ」
「そうでしょうね。この程度、予想もされていないようでは私も困ります」
いくつかの書簡を携え現れたのは、姜維であった。彼は張り詰めた空気を纏わせながらも、数年前と比較すると余裕のある表情を浮かべている。そんな姜維が何をしに来たのかは考えるまでもないが、この様子なら感情に任せて討論を繰り広げる様な事にはならないだろう。と、費禕は思わず感心するのだった。
「で、数年ぶりに直談判という事か」
「……正直なところ、私が口を出すまでもないと思っておりますけどね」
「その予想は正しいな。陛下からも命が来ている」
費禕が読んでいた文が、まさに皇帝・劉禅からの詔であったのだ。
劉禅は父の先帝・劉備によく似ており普段は感情を見せずやる気なさげに過ごしているが、その実行動的で必要と感じた事柄に手を付ける早さは尋常ではない。亡命して間もない夏侯覇の邸の手配を一晩で済ませた事などは、いい例だろう。
また、自身の評価については特に気にしている様子はないものの、信の置いている人間に関する事情はまた別問題なのか、若い青年らしく激情に身を任せることも稀にある。諸葛亮が没した後、死人に口なしとばかりに諸葛亮を貶し始めた人間を一人残らず厳しく罰している事からも、その性格の片鱗は窺えるだろう。
もっとも、どちらも滅多に見ることが出来ない希少な行動の為、周囲もその事実を忘れがちではあるのだが。
「陛下が……いえ、意外でもないですね。陛下は情が深いお方ですから」
「まったく、陛下の激情を抑えていた俺の身にもなってほしいもんだ」
その性格は現在残っている高官には知れ渡っており、その情の深さに心酔する姜維のような人間も多く存在する為、決して悪いものではない。だが、侍中や費禕は時や矛先を誤らないように制する必要があるため、特に気を遣う問題となっていた。
「此度は、休昭殿のお力を持ってしても止められなかったのですね」
「あいつが抑えられないなんて、余程の事だからな……ま、そもそも今回は、誰も陛下の意見に異を唱える必要がない。それでも一応は抑えようとしたんだから、本当に真面目な奴だよ」
「ええ……ですが、陛下が激昂する程の大事なのですよ。文偉殿」
董允は、費禕の数十年来の親友であり四人いる侍中の一人である。飄々と振る舞い掴みどころがなく酒や賭博を嗜む問題児の費禕とは異なり、真面目一辺倒で面白みの一切ない堅物であるため、激情に走る劉禅を窘めるのは彼の役割でもあった。
董允は諸葛亮からの信頼も厚く劉禅も信を置いていることから、普段ならば劉禅も彼の言葉はよく聞き自身でもしっかり思い直すことが出来ている。しかし、今回はそれが一切通用しないほどの勢いで意見を通してしまったらしい。これは、例外中の例外であった。
「ああ、分かっているさ。本音を言えば、もう少し時間が欲しかったんだが……陛下の命がなくても、これ以上は抑えられなかっただろうな」
「将兵も皆、いきり立っております。それは、なにも魏に卑怯な手を取られた事ばかりが理由ではありません。狙われたのが、貴方と陛下だったからなのですよ」
この国の成り立ちの都合上、将兵の中には長らく北伐を先延ばしにしていた費禕に不満を持つ者は少なくはなかったが、それでも彼の能力はこの国に必要なものだと理解している人間の方が遥かに多かった。故に、皇帝だけでなく費禕の命が狙われた事実もまた、将兵達にとっては許しがたいものだったのだ。
だからこそ、今回は大事になっている。それは姜維も費禕も分かっていたが、費禕は上手く言葉に表せないむず痒さのようなものを感じていた。端的に言えば、己の事で感情を露にする人間が想像以上に多く、照れていたのである。
「……まったく、郭循の奴も余計なことをしてくれた」
「そもそも、危機感のない貴方も悪いのです。諦めてください」
「君、今回は随分と手厳しくないか……?」
照れ隠しに頭を掻いた壮年男性を眺め口元を緩めた姜維だったが、その口から出た言葉は表情に似合わず辛辣なものだった。一応、姜維も初日こそ気を遣う言葉を掛けていたのだが、いつまでも飄々としている宰相に深く考えることを止めたのか、次第に言葉選びが容赦のないものに変わってきていることには、流石の費禕も文句を言いたくもなったのだろう。しかしそんな上司の愚痴にすら、姜維は涼しい顔で受け答える。
「私だけだとお思いですか?」
「…………いや、古参の連中には君以上に言われたな……」
夏侯覇や関索などのごく一部の人間を除き、費禕の傍で働く文武官達は姜維以上に辛辣であった。
ただ、その態度の理由にはそれだけ費禕の身を案じているという側面もあるのだ。いい大人が揃いも揃って素直ではない態度を取ることに費禕もここ数日辟易していたが、そんな人間関係を築いたのは他でもない費禕自身である事には気付いていなかった。




