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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
九章
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九章 二

「まあ、それは置いておいて……こっちが本題なんだけど」


 話が終ったと考えていた姜維は片付けを終え踵を返したが、夏侯覇が後を追ってきたため歩行速度を落とし、視線を向けるとそのまま歩き続ける。


「なんでしょう」

「最近、軍部では北伐への期待の声が大きいけど、そっちには届いてる?」


 夏侯覇としては、“北伐”と聞いて真っ先に浮かぶのは、良くも悪くも姜維の顔であった。それ故に、この話は真っ先に姜維に確認を取りたくなったのだ。


「勿論。文偉殿が暗殺されかけた以上、皆が報復に燃えるのは仕方のない事です。しかし、文偉殿はあの通りですので……」

「でも、そろそろ抑えられないんじゃない?」

「そうなのですよね……」


 いくら費禕でも、今回の件については日和見が難しい。始めから費禕が暗殺対象であったならばともかく、皇帝の代わりに費禕が狙われたという経緯があるためだ。ここでまた様子見に徹した場合、皇帝の命まで蔑ろにしていると取られかねない。これは一国を担う宰相としては、最も避けなければいけない事態であった。


「文偉殿には、腹をくくっていただくしかないかもしれませんね」

「あはは……やっぱり、君もなんだ」


 本人は呆れた様子を見せるが、姜維が北伐を望んでいることは夏侯覇にとっては既知の事実である。むしろ、遂に念願が叶うのではないか。とは言わずにおもむろに視線を向ければ、以前濁したことを思い出したのか、姜維はばつが悪そうに視線を逸らした。


「でも、費将軍は北伐を起こすつもりはあるのかな」

「ありますよ。そうでなければ、あの人があの地位に就くことはなかった筈です」

「…………と、いうと?」


 姜維が費禕を信頼していることは分かっていたが、北伐に関して二人は根本的に意見が合わないのではないかという考えを長らく抱いていた夏侯覇は、迷いのない姜維の返答に首を傾げてしまった。

 軍部の隅の隅の方では、姜維は渋々従っているだけで北伐が関わればすぐに費禕と対立するのではないか――などと、にわかに語られているのだ。それが姜維を貶すような意図を持った意見ではなく、北伐を推進していた蒋琬(しょうえん)の志を継いだ姜維に期待を込めて語られていることは夏侯覇にも分かったため、耳にした時は思わず納得してしまった程だ。

 しかし、その考えは改める必要がありそうだ。


「この蜀漢は、漢王朝の復活を掲げて作られた国です。そして、その障害となる魏を滅ぼすために作られた国でもあります。だからこそ、諸葛丞相は北伐を行っていた――ここまでは、以前もお話しましたね?」

「うん、覚えているよ」

「現在までの宰相をお決めになったのは、諸葛丞相なのです。北伐を行い、魏を滅ぼし、漢王朝を復活させる――その志を理解し共にしない人間は、いくら優秀であってもあの地位には就けません。軍を率いる立場の人間が北伐をしなければ、この国の存在意義が無くなってしまうのですから」

「ああ、だから費将軍もその志を持つ人ってことなのか。なるほどね……あまり、そんな様子には見えないけど」

「困ったことに、表に出さない方ですからね」


 夏侯覇は以前の生でも北伐や、それを取り巻くいざこざを目の当たりにしてきていた。当然その記憶は少なからず残っており、隅から隅まで詳細にとまではいかなくとも、それなりには思い出してきている。

 しかしその記憶の中に、諸葛亮が漢王朝の復活へ熱意を向けている人間を積極的に選んで人事を決めていた。などという情報はない。そもそも選り好み出来るほど人材が豊富ではないため、夏侯覇の記憶では“優秀な人材が活躍できる適切な地位に”という程度の人事だった筈なのだ。

 この違いはなんなのだろうかと疑問は湧くばかりだが、その疑問に答えられる人間は居なかった。


「ですが、この度の事件は文偉殿の退路を完全に塞いでしまいました。陛下の代わりに彼自身が狙われたのですから、これ以上北伐を先延ばしにすることは難しいでしょうね」


 苦笑を見せながら「それを後押しするほど国力も回復しておりますし」と付け足した姜維の言葉は、夏侯覇が想像した通りのものであった。

 しかし、誰もが思いつくような状況に陥っているという現状は、実は危険である。怒りに任せて開戦に至るまでが敵の策略だとすれば、当然簡単に北伐を再開するわけにはいかないのだ。


「はぁー……もしかして、司馬師はそれを狙ったのかな」

「可能性としてはなくはない、でしょうか。ただ、あくまで暗殺が主でしょうね」

「間者がたった一人なのに?」


 だからこそ夏侯覇もその危険性を敢えて口に出すことにしたのだが、夏侯覇と比べれば雲泥の差の知力を持つ姜維も、当然その可能性には思い至っていたらしい。

 ただ、小首を傾げながら慎重に言葉を選ぶその男の導き出した結論は、夏侯覇とは真逆のものであった。


「私の考えが絶対に正しいとは言いませんが……この国を戦に駆り立てるには、毒が少ないとは思いませんか?」

「……なるほどね。それなら確かに、たった一人っていうのは変か」


 姜維の意見も一理ある。たった一度の要人の暗殺未遂程度で戦争を起こす国があるかと聞かれれば、明確な答えは出しづらいだろう。現に宰相としては後継の姜維が存在している以上、最悪費禕があの宴で殺されていたとしても問題なくこの国は歩み続けるだろうし、実際に前世の世界では歩み続けていた。

 だからこそ、たった一人の間者で戦に踏み切ることまで考えているとは思えない。そう言われてしまえば、夏侯覇もなるほどと頷くほかない。


「あまり楽観して良いものでもないでしょうけれど……もしかすると、向こうも余裕がないのかもしれません。先日戻ってきた諜者の情報では遼東(りょうとう)の諍いも落ち着いていないようですし、先日の司馬氏の謀反の消耗に加え、事の発端となった曹爽(そうそう)の浪費も大きい……ですよね?」

「そうだね。昭伯(しょうはく)殿は蜀征伐の失敗以降、遊興に耽っていたから」

「敵ながら嘆かわしい話ですが……未だ回復していないのであれば、好機となるかもしれません」


 姜維は本気で北伐を起こすつもりのようだ。やはり、表に出していなかっただけで、彼の北伐に対する情熱は前世から何も変わっていなかった。

 その情熱の正体を夏侯覇は知っているようで知らないが、この生では蒋琬の存在が大きいのだろう。


「でも、慎重にね」

「わ、分かっております……!」


 ただ、やや熱の上がっている様子には思わず首を振り、窘めることは忘れなかった。

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