九章 一
郭循によって引き起こされた費禕の暗殺未遂事件は、漢中のみならず蜀国内に波紋を広げていた。
なにせ、魏の間者が軍に入り込み皇帝と宰相の命を狙ったのだ。元々、費禕の掲げる国力増強、回復の完了を待たずに北伐を切望する民や将兵が少なからず存在していたことから、一刻も早く陰湿な手を使い漢の皇帝を蔑ろにする逆賊魏を滅ぼすべき――そう考える人間が増えてきてしまっていた。それは武官のみに限らず、文官もまた同様である。
誰もが、大きな戦の気配を感じ始めていたのだ。
そんな中、前線に出せるほどまで育成された若手の将が漢中に配属されていた。その人数は、先日関興が連れてきた数のおよそ倍である。
「ここは……こうです。理解出来ましたか?」
中でも、成都で成果を上げ最も優秀であった二人の若い将は、姜維が直々に武芸の手ほどきをしていた。当然、姜維自身が決定した人事ではなく費禕が決めた人事ではあるが、若手二人は喜んで指導を受けている様子である。
それも当然だろう。姜維は蜀漢でも右に出る者が居ない程の武将であり、戦術家でもあるのだ。その直属の部下となるのであれば、身に余る光栄と喜び涙してもおかしくはない。少なくとも、この国での今の姜維の評価はそれで間違いないのである。
「はい、ありがとうございます!」
「ありがとうございます、姜将軍!」
「……さて、少し休憩しましょう。次は座学になるので、しっかり昼食をとってくるのですよ」
自身も部下の訓練を一旦終わらせ休憩に向かっていた夏侯覇は、見覚えのない少年二人が元気よく返事を返し鍛錬場から食堂の方へ駆けていく姿を見送ると、廊下の手摺りに体重をかけながら訓練用の武器を片付けていた姜維に声を掛けた。
「お疲れ様。あの子達は、新人?」
「仲権殿……お疲れ様です」
姜維が直々に部下の訓練を行うこと自体は別段珍しい事ではなかったが、たった二人を相手に座学まで教えるという状況を目にするのは初めてである。以前の生でも、ここまで若い少年が軍に配属されていた記憶もなかったため、夏侯覇のいつもの好奇心に火が付いた結果であった。
それを理解したのだろう。急に声を掛けられた姜維も驚いた様子を見せたが、流石に慣れたのか苦笑するとらしくもなく肩を竦める。
「先日配属された、傅公德と蒋希文です」
「遂に、君の部下にも若い子が来たんだね」
「いつかは来ると思っていましたが……いざ起こってみると、あまり感慨も湧かないものですね」
若過ぎて驚きはしましたが――と零した姜維は、少年二人が走り去った方向を眺めて軽く息を吐く。諦めのようにも見えるその憂いを帯びた表情は、遠い昔の近い未来によく見ていた表情に似ていた。
傅僉と蒋舒の二人は、夏侯覇の以前の生でも姜維の子飼いとして蜀を支えていた将である。蒋舒については目立った記憶も残っていないが、傅僉は名将として姜維の期待に応え彼をよく支えていた筈であった。
“筈であった”と他人事のように語る理由は、夏侯覇はある一定の時期から先のことが分からないことから、憶測でしか物事を語れない為である。
夏侯覇の記憶は、蜀という国が悪い意味で転機を迎えるよりも前の、景耀五年(二六二年)で途切れているからだ。
「で、どうなの? あの二人は」
「まだなんとも……筋は良いと思いますが、こればかりは長い目で見ていかなければ」
己の頭を指差し「此方も見なければいけませんしね」と答えた姜維は不安げであったが、少年二人の存在に不満がある様子はない。ならその不安はどこから来るものなのかと思い巡らせてはみたものの、夏侯覇には皆目見当もつかない。だが、今の姜維と彼らの間に前世のような関係が続くのであれば、きっと問題ないだろうと楽観視していた。
何故なら二人は姜維が可愛がっていた部下である。彼の周囲を取り巻く環境は随分と変わってはいるが、こうして出会えた以上、その関係まで大きく変わることはないだろう。知っていれば、そう考えるのはごく自然な事であった。
「そうか。ま、君が教育するなら大丈夫だと思うよ」
「そうだといいのですけどね……無事生き延びてくれることを、祈るばかりです」
「それは私達もじゃないかなぁ」
いつ死ぬか分からないのは、戦場に立つ以上は皆同じである。勿論、最前線に立つ人間と本陣に構える人間で生存率が変わることは踏まえたとしても、完全に安全な場所など戦場のどこにも存在しないのだ。故に他人事の様に心配している場合ではないのは、姜維も夏侯覇も二人の少年も他の将兵も変わらないのである。
夏侯覇がそれを指摘すれば、気の抜けた返事を返し姜維も頷くのであった。




