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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
八章
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八章 七

 報告が終わり、執務室に集まっていた諸将は次々に部屋を後にしていた。そんな中、費禕はある一人の将を眺めながら、異様な感覚に苛まれ密かに首を傾げる。


「……なるほど。これか」


 それは昨年の話だ。別件で漢中を離れられない費禕と、これまた別件で動きが取れない鄧芝に代わり、姜維が呉の大都督と会談を行った後の話である。呉の大都督・陸遜から所感が送られてきた際に、今まさに費禕が感じているものと同じ問題について報告を受けていたのだ。


「費将軍、いかがされました?」

「いや……ああ、ちょうどいいな。疲れているところ悪いが、残っていてくれるか」

「はい」


 運悪く独り言を関索に聞かれてしまい一度は誤魔化そうとした費禕だったが、ある考えが脳裏を巡る。過去のとある人物に対する関索の態度にひとつの可能性を感じ、彼にのみ打ち明けてみようと考えたのである。



 最後に退出した姜維の姿を見送り、二人は改めて席に着いた。関索は、昨夜以外になにか失態を犯していたのかと気が気でない様子で費禕の表情を窺い見ていたが、説教ではないと費禕が宥めることで僅かながら落ち着きを見せる。


「維之――君は仲権殿と接していて、妙な感覚を抱いたことはないか?」

「…………妙な感覚……ですか?」

「ああ、まるで俺が間違っていると言われているような。嫌な予感というか、感覚というか」


 費禕は陸遜の言葉を思い出しながら、漸くその言葉の意味を理解しようとしていた。

 夏侯覇からは、この世の者ではないと此方を指摘するかのような妙な空気を感じる――陸遜が語っていた所感は、今費禕が感じている感覚に近いのではないか。この言いようのない不安や、自分が間違っているのではないかと感じさせる妙な感覚は、自分だけが感じているものではないのではないか。

 漠然とした確信は、敢えて夏侯覇と最も近しい姜維ではなく次に接触の多い関索へ確認を取ることで、遂に形になろうとしていた。


「あ、なるほど。はい。それなら僕も興兄も苞兄も、あの方に出会った時から感じていました」


 あっけらかんと答えた関索だったが、すぐに周囲を憚るように声量を落とした。これまで、夏侯覇本人や姜維の耳には入れていない話だったのだろう。


「出会った時から……? そんなに前からなのか?」

「はい。僕は漢中の森で一目見た時から、嫌な感じがしていましたね」


 だから、しばらく彼を警戒していたんです。と関索は苦笑を見せる。確かに、夏侯覇が亡命してきた最初期の頃、関索は夏侯覇を必要以上に警戒していた記憶がある。その彼らしからぬ行動があったからこそ、費禕も敢えて打ち明ける相手を関索に決めたのだ。

 しかしあれは、警戒どころか一歩間違えれば敵視と呼べる代物だっただろう。そんな義兄を夜な夜な窘めていた姜維の苦労もまた、同時に思い出されるのだった。


「その話、他の誰かにしているか?」

「ええと……わざわざ確認を取ったわけではないんですが、王将軍と、伯瞻殿も同じ感覚を抱いたと言ってました。でも、他には誰も」

「あの二人もか……」


 王平と馬岱の二人まで同じ状況に陥っていたとは思わず、費禕は感嘆するばかりであった。なにせその二人と張苞、関興は、出会い頭に警戒していた関索とは異なり、全く態度に出していなかったのである。費禕ですら先刻の報告を受けている最中、時折身震いするような悪寒を感じていたほどの感覚だ。というのに、張苞に至っては血縁関係もあるため個人的な親交も深い。

 それに関しては、わだかまりが解けたということにして交流している現在の関索にも同様のことが言えるが。


「費将軍も、あの感覚を?」

「ああ、今朝から急にな」

「……これ、何なんでしょう。夏侯将軍は凄く良い方ですし、蜀の為に一生懸命働いてくれてるのに……なんだか、申し訳なくなります」


 俯く関索の言葉には、費禕も概ね同意見であった。

 良くも悪くも癖のある蜀漢の人間と比べると、夏侯覇はさほど癖もなく人当たりの良い好青年といった印象が強い。仕事ぶりも真面目で責任感のある人物であるが、かと言って遊びがないわけでもなく冗談も人並みには口にするため、結果“部下としても上司としても友人としても文句なしの良い奴”という感想に行き着くのだ。実際、兵達からの評判はすこぶる良く、進んで夏侯覇の部隊への配属を選ぶ者もいるほどである。

 そんな好人物と接している間中、不安に駆られるような感覚に苛まれていることは、感じている本人としても非常に後ろめたいものであった。


「伯約は、多分感じてないんですよね。紹も。だから、一緒にいても大丈夫みたいなんです」

「……どういうことなんだろうな」


 人によってそれを感じる人間と感じない人間が存在することも疑問ではあるが、それ以前にこんな感覚を抱くこと自体が問題だ。昨日まではなかったものでもあったため、突如関索らの仲間入りを果たしてしまった費禕としては尚更疑問が大きかった。


「うーん……僕には分かりません。なので、伯約のところの、方士さんに相談してみたんですけど……」

「なにか言われたか?」

「分からない――と、言いきられてしまいました。あの方が分からないなら、お手上げです……」

「それは参ったな……」


 関索が左慈の元を訪れたのは、夏侯覇が隠れ家に顔を出してから四ヶ月後のことであった。夏侯覇と左慈が顔を合わせたことを姜維から聞いていたため、何か手掛かりが掴めるかもしれないと関索は再び帰省に同行したのだ。

 が、結果は芳しくなかった。左慈自身も詳しいわけではないだろうが、敢えて夏侯覇の正体を教える必要はないと感じていたのだろう。故に、関索の問いもはぐらかされるばかりであったのだ。


「僕……夏侯将軍を信じていて、大丈夫ですよね」

「……そこは大丈夫だろう」


 現に、一番近しい姜維はこれといって害を被っている様子もなく、二人は親しくなっていっている。戦場でもそれは変わらず、少ない出陣の中で戦果もほどほどに上げてきているのだ。夏侯覇を疑う余地はどこにもない。

 だが、それでも費禕は、陸遜が文に残した最後の言葉が引っ掛かって仕方がないのであった。

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