一章 四
緊張感のない費禕から盛大なもてなしを受け数日、漸く皇帝に謁見するために成都に入った夏侯覇は、普段通りゆったりと構える費禕に続き、隣には姜維に並ばれながら宮中に入っていた。
「陛下。此方が、降将の夏侯仲権殿です」
玉座で待ち構えていたのは、劉禅、字は公嗣。先帝・劉備の息子であり現在の蜀帝でもあるのだが、夏侯覇が一目見ただけで分かる程その雰囲気には覇気がなく、悪く言えばやる気がない様にも見えてしまう。その上彼は若く、未だ十代を抜け出していない少年の容貌であった。
これが、魏でも話題に上がっていた暗愚なのか。と、醸し出される雰囲気を身で感じ母国での評価に納得しつつも、隣に立つ姜維から「何を思っても絶対に表に出すな」と言わんばかりの鋭い視線を感じた為、決して顔には出さないよう気を引き締める夏侯覇であった。
「夏侯……玲莉よ、確かそなたらの母君は」
「はい、夏侯の姓の者にございます」
劉禅の背後に控えるのは、張玲莉。劉禅の妻であり、張皇后と呼ばれている人物である。皇后は、本来謁見に顔を出すような立場の人間ではないが、今回は費禕の要望により特別に謁見に参列していたのだ。
「陛下。其方の件については、俺が」
「うむ、申してみよ」
皇帝と皇后が神妙そうな面持ちで顔を見合わせ夏侯覇を眺め始めると、費禕は一礼し懐から報告書を取り出す。背後に立っていたことに加え費禕よりも頭半分ほど身長が高いことから、夏侯覇からもその内容が少しばかり見えてしまったが、「夏侯」「翼」「姫」程度の文字しか読み取ることが出来ず、それだけでは費禕が何の話をしようとしているのか予測も立てられない。
ここ数日で判明した費禕の人となりを踏まえても特に初対面時の認識を改めるほど印象の変化も無く、正直なところ不安しか感じられない夏侯覇は、戦々恐々とするばかりであった。
「夫人と仲権殿の関係について、調査致しました。皇后様の母君であらせられる夏侯夫人は、魏の夏侯妙才の従妹――つまり、夏侯妙才の息子である夏侯仲権殿の、叔母にあたる方にございます」
参列している武官、文官達が俄かにざわめき出し、隣の姜維すら「叔母……」と、驚愕と納得の入り混じった声で小さく囁くのが聞こえたが、夏侯覇はそれどころではなかった。
夏侯一族は絶対数が多く、当然ながら夏侯淵の従妹にあたる女性もそれなりの人数がいる訳ではあるのだが、蜀に嫁いだ人間などまるで心当たりが無かったのだ。敢えて伏せられているのか名前を確認することも出来ず、その夫人とやらの正体を掴むことすら出来ない状況は、夏侯覇を酷くやきもきさせた。
「まあ……では、この方は私の従兄にあたるのですね」
「はい、間違いなく」
「であれば、遠縁とはいえ余の身内ともなるか……」
劉禅はそう呟き隣を向くと、傍に立つ癖毛の侍中らしき人物に意見を求めているのか、ひそひそと明確に聞き取れない程度の声を室内に響かせる。そして間もなくその会話が終わると、二人は満足げに微笑み合い夏侯覇に向き直った。皇帝と侍中の関係とはいえ妙に親密に見える様子に夏侯覇が疑問を抱く暇もなく劉禅が口を開いた為、結局その違和感を誰にも打ち明けることが出来ないまま胸の内に仕舞い込むことになってしまう。
「夏侯仲権殿。そなたを、我が国の将として迎え入れたい」
「あ、有り難き幸せ……!」
覇気のない雰囲気は未だ残ったままではあるが、その物言いは思いの外しっかりとしており、僅かながら意志の強さを感じさせる。そう固くなるなと笑う劉禅を見上げ、魏で言われているほど暗愚ではないのではないだろうか。と、敵国に対する情報の歪みを感じたのであった。
「……さて、姜将軍。仲権殿は、そなたに任せて構わぬな?」
これまで、ただ二人の護衛の様に静かに立っていた姜維に、遂に劉禅の視線が向けられる。夏侯覇がこの国の将としての生活するにあたり、その世話を姜維に一任すると言っているのだ。それには、夏侯覇の方が驚いてしまった。
姜維は衛将軍、そして費禕と同じく録尚書事も兼任しており、この国では費禕に次ぐ権力者でもある。そんな人物が降将である己の世話を任されたのだ。一体どんな待遇だ、と疑問を声に出してしまいたくなるのも仕方のないことではある。また一方で、夏侯覇の世話を任された姜維は涼しい顔をしており、まるで最初からこうなることを知っていたのではないかと疑いたくなるほど一切の動揺もなく恭しく拝礼したものだから、夏侯覇の混乱は更に深まった。
「はっ。お任せ下さい、陛下」
「うむ、そなたならば安心だ。くれぐれも、宜しく頼むぞ」
主役の夏侯覇が狼狽えたまま謁見は終わり、諸々の手続きという名目で、そのまま費禕の執務室へ連行されたのだった。
「な、大丈夫だったろう?」
執務室に入るなり得意げに声を上げた費禕は、宮中から黙ってついて来ていた二人に椅子を勧めると、どかりと音を立てて自分の椅子に座る。費禕がひと月以上成都には戻っていないと言っていたことを思い出し夏侯覇はそれとなく室内を見渡したが、特に散らかっている様子もなく埃ひとつない。どうやら、使っていない間も頻繁に掃除はさせているようである。
費禕とは対極的に音を立てずにゆっくりと椅子に腰掛けた姜維は、軽く息を吐くと夏侯覇を一瞥し頷いて見せた。
「まさか、仲権殿と皇后様に血縁関係があったとは……驚きました」
「私もです……ところで、その夏侯の者の名を教えてはいただけませんか?」
「ああ、そういえば言っていなかったな」
ここに来て漸く、夏侯覇は謁見の間から気になって仕方なかった父の従妹である夏侯の姓を持つ女性の正体についての疑問を口にすることが出来た。流石に一族全員の情報を網羅しているわけではないとはいえ、全く見当もつかない人物なのだ。そろそろ聞いておかないと疑問が膨れ上がり過ぎて夜も眠れなくなりそうだ、と漏らす夏侯覇に姜維も同意し何度も頷く。
「夫人の名は、夏侯月姫殿。張翼徳様の妻だ」
「月姫……!?」
思いがけない名前に、夏侯覇はその場に立ち上がる。
夏侯月姫という女性は、夏侯淵の従妹であり、二十余年ほど前に徐州で薪を集めに山へ行ったきり行方をくらませた人物である。当時十代前半の少女であったため身内の誰もが生存を絶望視しており、消息を絶って十年以上経った頃には既に亡くなったものと思われていたのだ。
夏侯覇自身も彼女とは幼少の頃に面識があり、少しばかり遊んでもらった記憶もある。そんな人物が生きていたと聞いては、大袈裟に驚くのも無理はないだろう。
「詳しい話は俺も知らないが、戦場に迷い込んだところを保護されたらしい。そのまま翼徳様に見初められ、妻になったと聞いている」
「父上と大叔父上が聞いたら、卒倒しそうな話です……」
張飛といえば劉備の義兄弟であり、蜀有数の豪傑と名高い猛将の一人である。ただ、気性も荒く目下の者に厳しい為、無茶な命を下した事が発端となり最期は部下に寝首を掻かれてしまったと伝わっている。
深窓の令嬢であった月姫と、豪傑の張飛が夫婦になっていたなどという現実がどうしても理解が出来ず、夏侯覇は文字通り頭を抱えた。
「ところで、当の夫人は今はどちらに?」
「張家の邸の筈だ。後日、息子のどちらかに案内させよう」
「助かります」
張家の邸が成都にある事、そして姜維、費禕共に邸が成都にある事から、夏侯覇に官位を授けられるまでの間は費禕も。そして、夏侯覇の世話を任されている姜維は、暫くの間成都に滞在することが決まり、月姫との再会については費禕に委ねられることになった。
命からがら亡命して数日、姜維に命を救われてからとんとん拍子で話が進む状況に嬉しいながらも、夏侯覇は疲労を覚えていた。
あの森の中で目が覚めてから、違和感として頭の隅に引っかかる何かが僅かに主張を繰り返しており、どうにも落ち着かない。まるで何かが違うと訴えかけるように、友人の様に穏やかなやりとりを繰り返す目の前の二人の様子すら違和感に塗れていたのだ。
だが、亡命して間もない夏侯覇に、それを口にする勇気はなかった。