八章 六
「――司馬師の策、ですか」
費禕の執務室に集められた諸将は、関索の報告に静かに耳を傾けていた。
郭循は魏の司馬師により送り込まれた、間者だったというのである。本来の目的は費禕ではなかったが、対象に近付くことが出来なかった為、代わりに狙われたのが費禕だったというのが、今回の事件の真相であった。
なお、司馬師とは、司馬懿の長男であり、魏の司馬一族による謀反を企てた張本人である。夏侯覇によって苛烈な人物であることは蜀内でも伝えられていたが、これほど陰湿な手を打ってくることまでは夏侯覇以外の誰も予測していなかった。
「はい。本来は陛下の暗殺をしたかったようですが、漢中に身柄を預けられたので費将軍を狙ったようです」
「なるほど。ま、ここで俺を狙うのは正しい選択だな」
「そうですね……費将軍を失えば、漢中どころか蜀全体が混乱してしまう」
深刻な面持ちで呟く張翼の言葉に、その場の誰もが頷くしかなかった。皇帝の威光には届かないとはいえ、軍どころか国の運営は費禕の双肩にかかっていると言ってもいい。実務の面で言えば、間違いなく狙われて一番痛い急所は費禕なのだ。それを理解しているからこそ、昨夜の姜維の働きには皆称賛の声を上げ、咄嗟に動けなかった自分自身を責めていたのだった。
「……そうなっていた場合、伯約が後継になっていたのか…………」
「ああ。俺が急に死んでも、難なくこなせる程度には仕事は教えているが、まあ……」
夏侯覇の言葉に顔色を悪くしてしまった姜維は、おもむろに視線を投げてきた費禕とも目を合わせずにただ俯く。昨夜の出来事が余程堪えたのか、「もし費禕が殺されていたら」という話題に対しては傍からも怯えて見える程に姜維は避けていた。
「……とにかく、今回は助かった。今後は俺も注意するから、君らも安心してくれ」
「本当に気を付けてくれよ、総大将。俺らも、いつでもここに居るわけじゃねぇんだから」
「とりあえず、しばらくは護衛をつけてくださいよ」
「はは……いや、本当にすまん……」
現在の軍部で最古参の廖化、張翼に強く窘められ、流石の費禕も普段通りの飄々さは発揮できずにいるようであった。
「他の投降者はどうだ?」
「全員確認しましたが、郭循以外に間者として送り込まれたも者はいないようです。念のため、監視は付けますが……」
「そうか……面倒を掛けるな、維之」
郭循が投降した際やその前後にも、数人魏将が蜀に降将として入り込んでいる。それらの身柄を預かっているのはなにも関索だけという訳ではなかったが、昨夜の間に該当する将には話をつけていたらしい。関索が目配せをすると、関わったと思われる張翼と廖化はそれぞれ頷いて見せる。
なお、姜維と夏侯覇は自らが魏の出身ということもあり、要らぬ疑いを避ける為にも進んで麾下に魏の降将を加えることはない。唯一の例外が、費禕の命により姜維の副将に夏侯覇を就けている程度であった。
「いえ、見抜けなかった僕にも非があります。お二人の身を危険に晒してしまい、申し訳ございませんでした」
昨夜から処理に駆け回っている関索を労い、費禕は改めて己の不用心さを思い知る。死ななかっただけでも儲けものだが、それにより部下が苦労しているのだ。彼らに罰を与えるどころか、慰安しなければいけない程だろう。
「伯約。よく、費将軍を守ってくれた」
「……張将軍」
周囲の会話にも、黙り込んだまま一切口を挟まなかった姜維に気を遣い、声を掛けたのは張翼であった。
「いや、面倒をかけてすまなかった……の方が、正しいな。本来、あの場に居た将達が真っ先に動かねばならなかったのに、お前に手間を取らせてしまった」
「いえ……文偉殿を失えば、この国が混乱に陥ります……だから……」
「……随分と、気を張っているな」
歯切れ悪く言葉を続けようとする姜維を眺め、張翼は首を傾げる。姜維が蜀に来てから長らく見ていた張翼にとっても、今日の姜維は異常なほどに怯えていたのだ。
昨夜、費禕と別れてからは比較的落ち着いていた姜維であったが、詳細が露わになるにつれて何か思うところがあったのだろう。今になり怯えた様子を隠すことも出来ずに顔を真っ青にしている姿には、続けて関索の話を聞かされていた夏侯覇も気になり時折視線を向けていた。しかし、二人の会話に割って入ろうとまでは考えていない。
「……昨夜は、嫌な予感がしたのです」
「虫の知らせ、というやつか?」
「はい……恐らくは」
会場外に居た姜維が現場に真っ先に駆け付けた理由が、まさにその虫の知らせによるものであった。そんなことがあるものだろうかと張翼も半信半疑であったが、実際にその虫の知らせにより費禕が九死に一生を得ていた以上、信じざるを得ない。
もしくは、郭循の暗殺は姜維側の手引きもあるのか――そこまで考え、張翼はその邪推を切り捨てた。姜維がそんな器用なことをできる男ではないことを、張翼は日頃よりよく知っている。費禕を暗殺するにしても、暗殺されかけた費禕を助け周囲の信頼を得るにしても、あまりにもやり口が回りくどいのだ。そんな面倒な策など、これまでの戦でも日常生活でも片鱗すら見せたことがない。そんなものは、姜維らしからぬ行動なのだ。万が一にもありえないだろう。
「……私はそういった迷信じみたものは信じないが、お前のその予感のおかげで今回は救われたな」
「恐縮です……」
なら、きっと姜維のこの怯えようは、自身や蜀漢という国が支柱としている宰相を失う事を恐れているのだろう。そう思えば納得だ。と、ひと回りは年下の青年を慰めるのだった。




