八章 五
朝食を終えた姜維が費禕の執務室に向かっていたところ、執務室の方向から周囲を窺いながら歩いて来た関索と鉢合わせた。
「あ、おはよう。伯約」
「おはようございます、兄上」
関索の声には普段の勢いはなく、顔にもやや疲れが見える。郭循の身元を預かっていた関索は、昨夜の騒ぎのあと一晩中尋問と拷問を行っており、ほぼ寝ていなかったのだ。とはいえ、徹夜で尋問をしていた程度では関索がここまで疲弊することはない。
関索が疲れているのは、自身の部下が宰相を手に掛けようとした――という事実に対する心労の方が勝るが故だ。
「……うん、大丈夫そうだね。よかった」
そんな関索は、自身の方が余程酷い顔をしているにもかかわらず、姜維の顔を確認するとほっと息を漏らした。しかし、義兄の安堵の理由に心当たりがない姜維は、疑問と不安に首を捻るしかない。
「な、なにかおかしかったですか……?」
「うん、昨日の夜は顔が怖かった。だから、落ち着いたみたいで安心したよ」
「……昨夜はすみませんでした、頭に血が上ってしまって……」
己の目尻を指で押し上げ昨夜の姜維の真似をしている関索を一瞥し、姜維は気まずさに視線を逸らした。怒りのあまり普段は口にしないような事まで口にした上、それを諸将に見られていたのだ。緊急時故恥じらうような事ではなかったが、それでも普段は努めて冷静にいようとしていた姜維にとっては一刻も早く忘れられたい記憶である。
当然、義兄として数年接している関索もそれは理解していたが、関索が姜維を咎めるなどありえないことである。今回も心配こそすれ、基本的には一連の行動を褒めるつもりで話題に上げたため、今後も忘れることはないだろう。
「いいんだよ。伯約がああなるの、凄く珍しいもんね。それに、伯約が守ってくれなきゃ費将軍も……」
「……ええ」
関索も昨夜あの場に始めから居合わせていたが、他の諸将と同じく郭循の凶行に気付けなかったため諸々の行動が出遅れた側の人間である。それを、よりにもよって部下の報告のために会場外に出ていた姜維が阻止したのだ。何のために同じ会場内に居てまで警戒していたんだ、と責められても文句は言えない立場である。
だが、姜維以外に動いたのはやはり会場外に居た筈の夏侯覇のみであったためか、費禕は必要以上に関索を責めることはなく、姜維も形式上の責以外は誰にも科そうとはしなかった。むしろ責められたのは、警戒心のなさ過ぎる費禕の方であったのだから、今回の暗殺未遂がどれほど異常なものであったかが分かるだろう。
「二人とも怪我ひとつなかったし、一安心かな。でも、あんまり無茶しちゃ駄目だよ?」
「……約束しかねますが、気を付けます」
「うん。まあ、何かあったら次からは僕が守るから、大丈夫だよ」
拳を握りしめて張り切る関索が精神的に無理をしていることは姜維も理解していたため、敢えて水を差そうとは考えなかった。しかし、義兄に無茶をされて困るのは姜維である。そこだけは釘を刺そうと、きつい言い方にならないよう努めた結果、姜維は苦笑を浮かべていた。
「……兄上こそ、無茶をなさらないでくださいね」
「うーん……約束できるかなあ」
己と全く同じような返答をする義兄に肩を落とした姜維と、普段の騒々しさの欠片もない弱々しい笑い声を上げていた関索の元に、姜維と同じく費禕の執務室に向かおうとしていた夏侯覇が合流する。当然夏侯覇も関索の異変にはすぐに気が付いたが、義兄弟である二人に比べて親しい仲でもないため、敢えて触れることはないのであった。
「おはようございます、夏侯将軍。昨夜はお疲れ様でした」
「維之殿こそ、お疲れ様です。あの後、遅くまで尋問されていたとか……」
関索が尋問をすることは夏侯覇も知っていたが、早朝に報告を受けていた姜維とは異なりそれが夜通し行われていた事までは知り得ず、食堂からの道中遭遇した関索の部下に話を聞いてようやく知ったのだ。あの騒動の後、呑気に酒を飲んでいた事に後ろめたさを感じていたものの、それをわざわざ本人に伝えることはしなかった。
「あはは……一応、僕の監督不行き届きになっちゃいますからね……責任を持って、しっかりやってきました」
「……あいつ、吐いたんですか?」
「はい、吐かせました」
郭循は、敵国の懐まで入り込んでまで暗殺を行おうとした狡猾な人間である。そう簡単に暗殺の詳細を吐くとも思えなかったが、尋問官でも拷問官でもない将軍の関索が一晩中付きっきりで尋問していた甲斐あってか、無事吐かせることに成功したらしい。その尋問や拷問がどれほど激しいものであったのかは、夏侯覇も姜維も敢えて問うことはなかったが、大よその予想は出来たのか二人は思わず目を見合わせた。
「それについては皆さんに報告もあるので、詳しい話は費将軍の所でしますね。伯約も大丈夫かな?」
「ええ、ちょうど向かおうとしていたところでしたので。よろしくお願いします」
関索が廊下で周囲を窺っていたのは、軍の高官を集めていたのが理由だったのである。関索は他の将軍を探しにその場を去ったため、残された二人も大人しく費禕の執務室へ向かったのだった。




