八章 四
翌朝、さっそく部屋の前で鉢合わせた二人だったが、口を開く前から既に期待に満ちた目で見つめてくる姜維の様子に、邂逅早々気圧された夏侯覇であった。
昨夜の姜維は間違いなく酔っていた筈だが、運が良いのか悪いのか、記憶はしっかり残っているらしい。
「おはようございます、仲権殿」
「お……おはよう。伯約」
あまりに無邪気な視線を向けられたため昨夜の約束を違えるわけにもいかず、初めて畏まった態度を止めた夏侯覇は、異様な緊張感に頭を抱えたのだった。蜀に亡命して一年以上、従弟である張兄弟と部下以外とは砕けた口調で接することがなかった夏侯覇にとって、思いのほか勇気のいる行動だったのだ。
「……うううん…………やはり、慣れませんね」
「いえ、いい感じでした。今の調子でお願いします」
「そうですか? なら……まあ、これで……いかせてもらうよ」
なんとも言いがたい気恥ずかしさに頬を掻きながら視線を逸らす夏侯覇を物珍しげに眺め、滅多にない完全勝利に姜維は僅かばかり満足していた。誰も彼も基本的には姜維を弄る人間ばかりであり、月日が経つにつれこの夏侯覇ですら頻繁に姜維を弄るようになっていたのだ。強く出れないわけではないが、たまにはやり返したかった姜維にとって、酔った勢いにより偶然掴み取った想定外の勝利だったのである。誇れはしないが、気分は良い。
「貴方の方が年長ですし、この方がしっくりきますね」
「そう言われると、断れないなぁ……」
悠々と食堂に向かう姜維の後を追いながら、負かされているにもかかわらず何故だか悪い気はせず大人しく食堂へ入った夏侯覇であったが、ご機嫌な姜維が豆腐料理ばかりを運んできたことには思わず口を挟んだ。
「……それ、全部食べるの?」
「はい。あ、仲権殿もお食べになりますか? こちらなどは、少し辛い味付けで食べやすいと思いますが」
「う、うーん……私はいいんだけど、その量は凄いね……」
「せっかくなので、朝の内に食べてしまおうと思いまして」
夏侯覇も豆腐が嫌いというわけではないが、朝から大量に摂取したいものという訳でもない。思い返せば、以前から姜維の食事の端には必ず豆腐があったことため、どうやら姜維は好んだものは飽きるまでとことん食べる性質らしい。
それにしてもこれほどの豆腐があっただろうか、などと別のところに疑問を抱くのが夏侯覇ではあったのだが。
「君は本当に豆腐が好きだね……」
「美味しいですし、作るのも楽しいですよ」
豆腐料理を頬張りながら姜維はなんでもない事のように言ってのけたが、将軍である彼の口から放たれるにしては、その言葉には突っ込みどころしかない。
「え、もしかしてそれ……自作なの?」
「ええ、昨日の間に仕込んでおきました」
「趣味ってそれか……」
以前、連日の様に費禕の晩酌に付き合わされていた頃の話である。彼は夜の調理場を指し、姜維が趣味の仕込みをしている、と語っていたことがあったのだ。まさかそれが豆腐の仕込みだったとは今の今まで気付かず、一年ほど温められた謎がこんな形で解かれることになろうとは。前世の記憶を持つ夏侯覇であっても、流石に予想していなかった。
一方姜維の方はこの奇妙な趣味を暴露したことには特に恥じらいもないらしく、むしろ誇らしげに胸を張っているのだ。それを見てまた疑問が湧くのが夏侯覇であった。なにせ、この話題が二人の間で挙がった際、何故か費禕が不自然に話を逸らしてまで詳細を隠そうとしていたのだ。が、これではまるでその行動の理由が分からないのである。
「なんというか……こんなにこだわっているなら、豆腐職人としても十分やっていけそうだね」
「なるほど、職人……考えておきましょう」
「本気かぁ……」
しかし、あの費禕のする事にいちいち理由を探していては、身が持たないだろう。費禕の行動の八割ほどには明確且つ重要な理由があるのは夏侯覇も分かるのだが、残りの二割の理由は冗談に塗れており、いつまでも分からないことが多い。姜維のこの趣味についても、ただ“謎にしておいた方が面白い”などと考えてはぐらかしていた可能性が捨てきれないのだ。
昨夜死にかけた宰相の顔を思い出し、絶対に本人を目の前にして口にすることが出来ないような事を考えながら、夏侯覇は向かいで豆腐への熱い思いを語る姜維の話を聞き流していたのだった。




