八章 三
「お疲れ様です」
費禕を見送った姜維が自室の近くまで戻ってくると、姜維の部屋の扉の脇を陣取るように夏侯覇が待っていた。その姿を見つけた姜維は驚きに僅かに眉を動かすものの、困ったように笑みを浮かべる。
「仲権殿……先に休んで良いと言いましたのに……」
「あはは、少し心配で」
「……どの辺りがでしょうか?」
宴会での剣幕を思い出し、姜維の説教により費禕が物理的に制裁を喰らっていないか、夏侯覇は心配していたわけなのだが、姜維もその心配の意味を察したのか僅かに眉間を寄せた為、それ以上の言葉を口にすることは出来なかった。乾いた笑いを上げる夏侯覇を見上げていた姜維は言葉無く肩を竦めたものの、いつまでも廊下に突っ立って部屋に戻る気配のない大男の様子には首を傾げるのだった。
「まあ、いいですが……もう、お休みになるのでしょう?」
「あ、今から少しどうでしょう」
待ってました、と言わんばかりに意気揚々と後ろ手に持っていた酒瓶を取り出した夏侯覇の事を、普段の姜維なら窘めていただろう。しかし、先刻あんなことがあったばかりで姜維も気を紛らわせたかったのか、珍しくあっさり首を縦に振ったものだから、夏侯覇もそれにはほんの少しばかり呆気に取られる。
「……そうですね、少し飲みたい気分です。私の部屋で構いませんか?」
「ええ、宜しくお願いします」
宴会での出来事については、二人とも敢えて触れることはなかった。当たり障りのない雑談を続けながら、互いに必要以上に緊張していた体を解すように酒を口にしていたが、ふと言葉が途切れた時、夏侯覇は思いついたように一言零す。
「貴方は、絶対に生き延びてくださいね」
姜維はその言葉に過剰に反応し、肩を震わせた。その反応を、先刻費禕が殺されかけたからだろう、と夏侯覇は解釈したが、それが正しいものかは分からない。しかし、小さな灯りでも分かるほど仄かに青くなったその顔は、不安に苛まれている事だけは分かるのだった。
「……突然、何を」
「いつ何があるか分かりません。私も、今宵それが身に染みました」
「…………ええ。死ぬ気は、ありません」
視線を落とし歯切れ悪くそう答える姜維は、この話題を嫌がっているようにも見える。なにか後ろめたい事でもあるのだろうか、と問い詰めかけた夏侯覇だったが、今こんな時に嫌がる話を強要しても仕方がない。
嫌な沈黙が部屋を包んでしまい、慌てて話題を変えようとした夏侯覇に先んじて口を開いたのは姜維だった。
「……ところで、ずっと聞こうと思っていたのですが」
「なんでしょう?」
元々話術が巧みという訳ではない姜維だからか面白いほど不自然に話題を逸らしているが、わざわざ言及する気にもなれず、一旦杯を置き夏侯覇は大人しくその話に乗る。なにか疑問を抱かれるような行動をした事があっただろうか、と、多過ぎる心当たりを片っ端から思い返してみたが、どれに突っ込まれても返答には困ってしまうだろう。隠し事の内容があまりにも現実的ではないのだから。
「何故、貴方はいつまでも私に対してその話し方なのですか?」
夏侯覇にとって、それは予想外の話題であった。話し方というからには敬語の事を指しているのだろうが、特に意識して使っているものでもなかった為、どう返答したものかと悩んでしまう。
「うーん…………なんとなく、ですかね」
「なんとなく……」
「砕けた話し方のほうが、良いですか?」
姜維は夏侯覇の言葉を反芻しながらも、どこか納得していない様子で視線を投げる。その剣呑な目が酔っている時の目に似ていたため、酔っ払いの戯言として切り捨てようかとも考えた夏侯覇であったが、投げかけてきた本人自身は真剣であると言わんばかりのきつい視線をじっと向けている。どう甘く見積もっても、この姜維は不誠実な対応を許してくれないだろう。だからこそ、本人の希望を聞くのが最も丸く収まる手段だったのだ。
「貴方が楽な方で構いませんが、立場も変わらない若年の私にいつまでも敬語なのは少し気になります」
「……私の事、友人と言って下さったそうですね」
「な、何故それを…………いや、文偉殿ですか」
「怒らないであげてくださいね」
何を拗ねているのかは分からないが、姜維の周囲には彼に気さくに接して来る人間が多い。故に、そんな友人や同僚たちのように気軽に接してほしい――というのが、姜維の本音なのかもしれない。酔っている人間の言葉を鵜呑みにして良いかは夏侯覇にも分からなかったが、酔いながらもしっかり狼狽える辺りは理性が残っていることを示唆しており、同時に夏侯覇を友人と称していたことも事実だったという事が明らかになる。
「……約束しかねます」
「はは……でも、私は嬉しいですよ。この国に来てから、沢山の方に良くしていただきました。特に伯約殿には、礼もしきれない程に」
費禕の揶揄いが関わると途端に意気地になる姜維は悔し気に歯噛みしたが、そんな反応すらも夏侯覇にとっては妙に懐かしい光景であった。遠い昔の未来の記憶に、もっと年を取っていながらも似たような態度を取る、少々大人げない彼の姿があったからかもしれない。
いい意味で肩の力が抜けてしまった夏侯覇は思わず笑いを漏らしながら、ひどく温かな気持ちに胸が包まれている事を感じていた。
「だから、敬いたかったんでしょうね。恩人なんですよ、貴方は」
「……そろそろ、いいのではないですか」
「ううん、悩みどころですね…………明日から、頑張ってみます」
どうしても敬語を止めさせたいのか、そこだけは一切譲らない姜維は酔っ払い特有の面倒くささで駄々をこねる。結局、あまりに真剣な目で見つめるどころか睨まれてしまった夏侯覇が折れることで、ようやく姜維も大人しくなったのだった。




