八章 一
「費将軍っ!!」
男の悲鳴が耳に届き、夏侯覇は己の記憶と同じように会場の戸を開けると同時に名を叫ぶ。既に悲鳴が上がっており激しい物音も響いていたため、当然、最悪の状況を覚悟して夏侯覇は室内に飛び込んだのだ。
――が、そこにあったのは、夏侯覇の記憶とは少し異なる惨状であった。
新年の宴会という事もあり祝いの席で気が緩んだのか。普段酔う事のない費禕は、その日は珍しく目に見えて酔っていた。更には、元々危機感のない男でもあるため、投降して間もない郭循に絡んでいる始末である。始めは周囲も二人の様子を警戒していたが、酒が進むと次第にその視線も離れ、費禕と郭循は二人ですっかり盛り上がってしまっていたのだった。
しかし、それがいけなかった。
酔いによる睡魔に抗えず瞼を落とした費禕を黙って見ていた郭循であったが、その懐には短剣を忍ばせていた。郭循は諸将の視線が離れた事を確認すると、横になり眠ってしまった費禕に短剣の切っ先を向ける。
そして、費禕の身体が貫かれようとした、まさにその時――
「っ……貴様!」
間一髪で部屋に飛び込んできた姜維により郭循の短剣は叩き落され、軽い金属音をたてながら床に転がる。しかしそれでも諦めない郭循は懐から別の暗器を取り出そうとしたのだが、姜維の初動の方が遥かに早かった。落ちた短剣を拾い上げると郭循の右肩に突き刺し、間髪入れずに壁に向けて腹を強く蹴り飛ばしたのだ。
勢いよく壁に後頭部と背を強く打ちつけた郭循は昏倒しその場に倒れこむが、姜維は身動きを取れないようにその両腕を縛り上げたため、肩の痛みで郭循が悲鳴を上げたところで夏侯覇が部屋に飛び込んできたのであった。
「……伯約!?」
「文偉殿! 酒の席では油断するなと、あれ程申したではありませんか!」
その騒ぎに目を覚ました費禕が驚きに声を上げながら起き上がるが、すぐに状況を理解し二人から距離を取る。そこまでいくと呆然と騒ぎを見ていた諸将も慌てて郭循を取り押さえ、漸く会場は騒がしくなり始めた。
「すまない……しかし、助かった伯約……!」
「まったく、後で説教ですからね!」
「そ、それは困ったな……」
流石に命を狙われただけあって動揺を隠せない様子の費禕であったが、更に珍しい事に姜維に叱られた事で顔を引きつらせていたものだから、人の波に飲まれて費禕らに近寄れずにいた夏侯覇も驚くしかない。
しかし、姜維はそんな上司の貴重な姿には目もくれず、射殺すような視線で満身創痍の郭循を見下ろしていた。
「さて……郭循、貴様は生かして帰さん。拷問も言い訳も必要ない、此処で死ね」
「ま、待って伯約……! 落ち着いて、まだ殺さないで!」
先刻は使わなかった腰に携えた剣を鞘から抜き、姜維は郭循の首に刃を当てる――が、それを止めたのは関索であった。当然だ。この所業が郭循の独断であるか、魏からの間者としてのものかはっきりさせなければ、今後の態勢に大いに差し支えるのだ。殺すのは時期尚早というものである。ましてや、郭循の身柄を預かっていた関索には責任もあるため、尚更今殺すわけにはいかない。
どうやら見た目以上に姜維は頭に血が上っているらしく、関索に押さえ付けられて漸く思い直したのだった。
「……費将軍、今の内にこちらへ」
その間、やっと現場に近付けた夏侯覇は費禕を部屋から連れ出すと、兵を呼び寄せ護衛をさせながら、遠目で姜維達を眺めて漸く一息つく。ここまで走ってきたことは大した負担にはなっていないが、心労の方は思いの外大きかったのである。
「すまない……面倒を掛けるな、仲権殿」
「いえ……しかし、あのように怒る伯約殿は、初めて見たかもしれません」
基本的に、姜維は敵味方や身分を問わず敬語で対する性格である。時折戦場に出る際は夏侯覇も傍で戦っていたが、敵将に対しても普段との態度はそう変わらず、丁寧な物腰を崩すことはない。
だが、今回の姜維はその態度を一変させ、激しく激昂していたのだ。あれでは、諸将が驚きのあまり呆けてしまうのも分かる気がする、と夏侯覇は先刻の状況を思い出していた。
「……俺も、久々に見たかもしれん。最近はなかったからな」
「以前から、あのように?」
「ああ、公琰殿や維之が貶されたり危険に見舞われると、敵相手には怒っていたもんだが……」
つまり、己の慕う人間の危機にのみ、姜維は今回のように激昂することがあるのだという。ただ、その対象に自身が入っている事は全く予想していなかったのか、費禕は神妙な面持ちで姜維を眺めていた。
「なるほど、情が深いんですね……」
「……君の事でも怒るぞ、彼は」
姜維らしいと言えば姜維らしい実に明快な理由だな、と夏侯覇は深く頷く。それをどう受け取ったのか、費禕は肩を竦めると僅かに笑いながら夏侯覇に振り向いたのだった。
「大事な友人らしいからな」
「友人……ですか」
聞いた事もないと言わんばかりに瞬きを繰り返している夏侯覇の様子を満足げに眺め、漸く普段の調子を取り戻した費禕は、緊張で凝り固まった体を解すように肩を回す。
そんな二人を見つけたのか、郭循の処分について決着をつけたらしい姜維は、二人に声を掛けるのだった。
「文偉殿! 無駄話はそこまでにして行きますよ! 仲権殿、彼が逃げないように捕まえておいてください」
「はい。諦めて行きましょう、費将軍」
「うおっ……!? 君の力はどうなっているんだ……?」
夏侯覇に腕を掴まれ、先導する姜維の後をついて行った二人は、そのまま姜維の執務室に入っていった。




