七章 五
春節を控え、厳しい寒さに一日中震えることもあるこの頃。兵の訓練を終え、一時暇になった夏侯覇は将軍府内をあてもなく散歩していた。角を曲がったその先に書簡を抱えながら歩いている姜維の姿を見つけ、つい声を掛けようか悩んだ夏侯覇であったが、彼が抱えていた書簡のいくつかが音もなく床に落ちたため、慌てて後を追いかける。
「伯約殿、落としましたよ」
「あ……すみません、ありがとうございます」
「うわ、凄い量ですね……! 暇ですし、手伝いますよ」
落としたことに全く気付いていなかった様子の姜維は目を丸くして頭を下げようとしたが、腰を曲げることがやや困難な量の書簡であったため軽く頭を動かしただけで終わってしまう。遠目からではあまり見えなかったその書簡の量には夏侯覇も思わず声を上げ、反論させないよう半分以上を取り上げてから手伝うなどと宣ったことから、姜維も大人しく手伝われるしかなかったのであった。
しかし、夏侯覇の持っていた書簡のひとつが風に煽られ開かれてしまう。
「…………郭……孝先? 伯約殿、この名簿は?」
「それは……先日の戦にて、投降した将の名簿ですね」
数年に渡り国境付近での小競り合いが続いている蜀魏の両国ではあるが、腐っても戦ではあるため死傷者や捕虜、投降者は少なからず発生してしまう。その際、魏の降将が蜀の将として迎え入れられることも少なくはないのだ。
その中で一際夏侯覇の目を引いたのは、郭循という名の将であった。
「郭孝先なら、現在の身柄は兄上の管轄になっていますが……お知り合いでしたか?」
「いえ、そういうわけではないんですが……なんというか、もやもやするというか……」
「……また、随分と曖昧な表現ですね」
言い表しようのない、得体の知れない不安に表情を曇らせた夏侯覇は、歯切れ悪く言葉を零す。きっと以前の人生で何かあったのだろうが、夏侯覇も全ての記憶を思い出しているわけではないため、気になりはするものの明確な表現が出来ずに唸るしかなかった。
当然、その事実を知らない姜維は、訝しげに夏侯覇を眺めるしかない。
「ううん……なんでしょうね、これは」
「私に聞かれましても……」
姜維のもっともな意見に笑って謝りながらも、「気のせいかな……」と小声で漏らし頭を掻く夏侯覇を、姜維も終始複雑な面持ちで眺めていた。
それから数日経ち、漢中でも新年の宴会が開かれることになった。
前年は穏やかに済んだ新年の宴会であったが、はたして新顔が増えた今年はどうなるか。と、生真面目な面々が戦々恐々としている中、夏侯覇もまた穏やかではない日々を送っていた。原因は郭循である。
郭循は蜀将として迎え入れられることになっていた。そのため、今回の宴会は彼を含めた新顔の歓迎会も兼ねているのだが、そう聞かされて以降、夏侯覇の心は晴れないどころか更に不安が増すばかりであったのだ。これはなんなのか、と、自問自答しても記憶がなかなか思い出せないため、いっそ左慈にでも助言を求めようかと考えていた、まさにその時であった。
「え……あ、なんだ…………これ」
今と少し異なるが、ほとんど変わりのない漢中の将軍府の中。その廊下を誰かと談笑しながら歩いていた夏侯覇は、宴の行われている部屋の近くに差し掛かった辺りで男の悲鳴を聞いた。
当然、夏侯覇は慌ててその部屋に飛び込むが、そこには血塗れで倒れている一人の男と、その男を殺したと思われる剣を持った返り血で真っ赤になっている男、そして宴会に参加していた他の諸将の呆然とした姿があったのである。
――間違いなくそれは、以前の生の記憶だ。そう確信した夏侯覇は、それがこれから起こるかもしれない未来の事柄であることも同時に理解したのである。
あまりにも急激に明瞭になった記憶に一瞬眩暈を覚えたものの、すぐに立ち直り夏侯覇は顔を上げた。
「…………そうだ、思い出した……!」
夏侯覇の以前の生で、費禕はある日突然亡くなった。そのため、急遽姜維が後を継ぐことになり、本人が長らく熱望した通り、本格的に北伐に着手することになっていったのだった。
では何故、費禕は志半ばで没することになったのか。他でもない、郭循に原因があったのだ。
「伯約殿!!」
宴会は既に始まっているが、夏侯覇はまず己の部屋から最も近い姜維の部屋の扉を断りなく開いた。
だが、そこは綺麗に整頓された寝台と卓があるばかりで、肝心の部屋の主が居ないのである。
「い、いない……って、それどころじゃないか……!」
夏侯覇は宴会の会場に向けて、改めて駆け出す。
宴会の会場から男の悲鳴が上がったのは、それから間もなくの事であった。




