七章 四
姜維に届いた文の情報については、姜維、夏侯覇、費禕の三人の間でのみ共有され、その内容の異常さからも口外されることはない筈であった。
「伯約! 恋文貰ったって、本当っ!?」
件の文が届いてから、ほんの数日後の事である。執務室で政務を片付けていた姜維のもとに、嵐が襲ってきたのだ。
その嵐の中心である鬼のような形相の関索と、明らかに面白がっている関興に迫られ、姜維は筆を持ったまま狼狽える。滅多に見ない義兄の怒り狂っている様子に気圧された、という理由もあるが、問題はそこではなく、文の話が何故か二人の耳に届いているという点であった。
「な、なんのことですか……?」
「あれ、違うのか? 熱烈な恋文を貰って困ってた、って聞いたんだけど」
「……誰です、そんなことを言う人は」
未だ成都に戻らない関興は、期待外れだと言わんばかりに肩を落とす。が、姜維の心中はそんな事では穏やかにはならない。眉を顰めて二人を見上げた姜維の頭には、秘密を共有している筈の二人の顔が浮かんでいたが、確実に犯人だろうと考えられるのはたった一人であった。
「文偉殿!!!!」
「うわ、来た」
先刻までの義兄と同じ様に鬼の形相をした姜維が飛び込んだのは、費禕の執務室である。しかし費禕の方も予想していたのか、言葉こそ驚いている風を装っているが、顔は半笑いなのであった。
「うわ、ではありません! 何故兄上と安国殿が文の事を知っているのですか!!」
「あ」
「あ、でもありません!!」
わざとらしく気の抜けた声を上げた費禕に対し、姜維の怒りの炎は更に燃え上がる。
執務室内には、同じく秘密を共有している夏侯覇も居たが、姜維の怒りの矛先は費禕のみに向いていた。夏侯覇が姜維の不利益になることを進んで行うとは考えてもおらず、また実際に夏侯覇がそんな事をしていないからこそ、無事費禕のみが疑われるという状況が発生したのだ。人畜無害故の役得、という奴である。
「いやー……すまんすまん。うっかり口が滑った」
「そのうっかりで、どれだけの被害が出ると思っているのですか!」
「ちなみに、具体的にはどんな被害が……?」
掴みかかりそうな程の勢いで迫る姜維にも一切怯まず、一切悪びれない費禕の姿には感服の一言ではあるが、本来“口が滑った”で済むような問題ではないことも確かである。
姜維の語る被害とやらの詳細が分からない夏侯覇にとっては、姜維よりもその二次災害の方が余程恐ろしかった。
「兄上が武装して国境方面に飛び出していきました……」
「だ、誰か維之殿を止めろー!!」
そしてそれは、夏侯覇の予想をはるかに超える大惨事であった。
結局、問い詰めに来たにもかかわらず姜維の話をまるで聞いていなかった関索は、武装を固め魏との国境のある北の方角へ馬で走り去ったというのだ。既に関興が追いかけてはいたが、あれは実の兄でさえ手に負えるかは分からない代物である。
それには夏侯覇も血相を変え、兵と共に慌てて追いかけた。
「……少しは落ち着きましたか?」
「うん……」
結局夏侯覇と関興によって確保された関索は事を起こす前に将軍府まで無事連行されて来たが、暫くは荒れていたため、夏侯覇が押さえつけていなければ会話もままならない状態であった。それをなんとか関興が宥めて、ようやく姜維のもとに顔を出せたのである。
なお、姜維は費禕への説教に勤しんでおり、夏侯覇らが将軍府に戻ってきた頃には費禕が物理的に鉄拳制裁を受けた後であった。具体的には、費禕はぼろ雑巾の様な姿で床に倒れていたのだから、姜維の怒りがどれほどのものか、誰の目にも明らかである。
「でも、恋文を貰ったのは本当なんだよね……?」
「恋文ではないと、何度も言っているではありませんか」
「ははは、大変だなあ伯約」
「貴方のせいです」
落ち着き過ぎたのか半べそをかいている関索であったが、姜維も義兄に対してはあくまで窘める程度で接していた。しかし、横槍を入れる費禕の胸倉はすぐに掴み、関索ですら恐怖のあまり軽く悲鳴を上げるほどの形相で睨み付けたため、流石の費禕もそれ以上茶化すことは諦めたようであった。
代わりにその役を買って出たのが、それまで大人しくしていた関興である。
「本当に恋文じゃないのか?」
「違うと言っているでしょう……子昂殿の話とはわけが違うのですから、むやみやたらに広めないでください」
関興は元来、噂話を好む性格である。好むどころか、自らも噂を流してしまうような問題児であることは、夏侯覇も姜維から聞かされていた。
そんな問題児の問題行動の被害者は、基本的には義兄弟の張苞のみらしい。しかし今回は運の悪いことに、その貴重な被害対象として姜維が関興のお眼鏡に適ってしまったのだ。既に府内には、“姜維が恋文を貰った”という噂話が僅かながら流れているというのだから、広まるのも時間の問題だろう。
「えー? せっかく伯約にも浮いた話が出たのかと思ったのになー」
「浮いた沈んだなどではありません。一刻も早く撤回してください……!」
「いやー もう無理かな……」
後に、夏侯覇はこの出来事を鍾会恋文事件と名付けるのだった。




