七章 三
気が進まないと語る姜維と共に費禕の籠る執務室に訪れた夏侯覇は、文を読んでいる間から既に肩を震わせていた宰相の様子を、戦々恐々としながらも黙って見守るしかなかった。
――が、文を読み終えると同時に、それも決壊する。
「ひーっ! ひひひ!! 腹が痛い! こっ、恋文っ!! 恋文じゃないか!!」
「殴りますよ」
「いや、す、すまんすまん……! しかし……く、ふふふ……っ」
「文偉殿」
どうやら笑いのつぼに入ってしまったらしく腹を抱えて笑い出す費禕と、それを見つめる姜維の絶対零度の視線が尋常ではない温度差を醸し出していた。思わず言葉を失う夏侯覇であったが、費禕の方は相変わらず笑い続けており、一切動揺している気配はない。
流石は、長年姜維で遊んでいるだけはある。
「想像以上でしたね……」
「この人は、これだから……」
渋い顔で首を振った姜維は、これでもかというほど大きな溜息を吐く。怒るのも馬鹿らしいと言わんばかりの言動ではあるが、そう考えるのも無理はないだろう。何せ費禕は、涙を流すほど笑っているのだ。流石に笑い過ぎではないかと夏侯覇も口を挟みたくなるものだが、そこは立場上堪えるのだった。
「はぁ……はぁ……暫くは肴に困らないな!」
「肴にしないでください」
「それは難しい」
卓に突っ伏し呼吸を整えていたくせに、急にすっと真剣な表情に変わった費禕の迫力に圧され、姜維は「む……」と漏らしたきり黙り込んでしまった。そもそも大笑いするような案件でもないのだが、その辺は費禕なりの気遣いだったのだろう。
とはいえ、夏侯覇の目には堪えきれずに笑っていたようにしか見えなかったのだが。
「――で、何故こんな文が送られて来るんだ? 君と、その鍾会とやらに接点はないだろう」
「そうなのです……戦場で相対した事もないですし、かの者の年齢を考えれば、私が魏に居た頃に会った事もないでしょう」
「何処からか届く君の活躍を聞いて惚れ込んだ、という訳か」
夏侯覇の経験した以前の生では、姜維と鍾会の間には親子ほどの年齢の開きがあった筈である。一方、今のこの生ではというと、夏侯覇が亡命した時点で十代後半の青年であった筈だ。親子程度の年齢差が、兄弟程度までは縮んでいるという訳である。
そんな若造が、何故こんな暴挙に出ているのか。以前、目の前の二人に「鍾会は型破りである」と説明した張本人の夏侯覇でさえ、理解できない。いや、理解したくないのであった。
「いやしかし、文を書く程とは……まったく。言葉に嘘偽りがないなら、相当な暴走屋だな」
「初々しいと言えば、聞こえは良いですが。きっと、口説ける自信があったんでしょうね……」
散々笑ってはいたが、費禕もこの鍾会の文の意図そのものは理解しかねるらしく、普段の飄々とした表情を崩し珍しく苦笑を浮かべている。引き抜きの誘いとも見えなくはないが、この情熱は全く別の場所から溢れ出ているようにしか見えないのだ。ましてや、相手は蜀の重鎮といっても過言ではない姜維である。何故良い返事が貰えると思ったのか、と小一時間問い詰めたくもなるというものだ。
「うーん……伯約。ここはやはり、恋愛偏差値を上げるべきじゃないか?」
「……いりません」
「勿体無いな。顔は良いから、幾らでも女が出来るだろうに」
「必要ないです……使いませんし」
しかし、姜維を弄るのは止めないのであった。にやにやといやらしい笑みを見せながら肘で姜維を小突く費禕の姿は、新しい玩具を見つけた悪餓鬼のそれである。苦虫を噛み潰したように綺麗な顔を歪ませ睨みつける姜維の反応などどこ吹く風で、文と姜維を見比べてまた笑い出すのだから質が悪い。
「まあ、確かに……意識せずとも色仕掛けは出来ていたしな」
「嫌です……何故こんな…………嫌です……」
両手で顔を覆い力なく首を振る姿は、あまりにも見慣れないものだ。
こんな姜維は滅多に見れない。相当、鍾会からの文が不気味だったのだろうか。費禕に終始押されるなど普段の彼ならまずありえないのだから、その動揺の程も伺えるというものだ。お気の毒と言う他ない――そんなことを考えながらも、一切慰めはしない夏侯覇であった。
「その文はどうするつもりなんだ?」
「伯約殿では処分し辛いでしょうから、私の方で処分します。思い切り燃やしてやります」
「はは! いいな、それ」
ついでに不要な書類も燃やすか、などと朗らかに提案する費禕とは対照的に、姜維の表情はその自由な男に弄られたこともあり暗いままであった。敵将から文が来るだけでも一大事だというのに、ましてや恋文の様な熱烈な内容である。気に病むなという方が無理な話だろう。
「これで、諦めてくれるといいのですが……」
「残念ながら、この手合いはそう簡単には諦めんぞ」
「これだけの量を送ってきましたし、また来そうですね……」
「い、嫌だ……!」
しかし姜維の願いも虚しく、この後も頻繁に文が届き、その度に半泣きで夏侯覇に処分を依頼するようになるのだった。




