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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
七章
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七章 二

 夏侯覇が漢中に異動となって、既に一年。亡命から、一年二ヶ月が経っていた。

 流石に一年も居れば夏侯覇も慣れるらしく、周囲に対し気の引けたような態度を取ることもなくなっている。また、年の割に好奇心が強過ぎる点はあるものの、他人へ害を与えることもなく癖もなくいたって常識的な夏侯覇の存在は既に軍内ではすっかり受け入れられていたのだった。


「仲権殿、急に呼びつけてすみません。相談があるのです」

「相談、ですか?」


 そうして日々を過ごしていた夏侯覇は、姜維に呼ばれ彼の執務室に訪れていた。姜維が夏侯覇に頼る、ということは戦以外ではまずありえない。その戦さえ現在は蜀魏間の小競り合い程度の小さなものであるため、立場を除いても対等に付き合いつつある二人ではあるが、未だ同僚と呼ぶには少々ぎこちないのであった。

 そんな姜維が、深刻な面持ちで夏侯覇を頼ってきたのだ。夏侯覇としては、喜びや驚きよりも、それほどの大事なのかと不安の方が勝るのだった。


「実は、文が来たのです」

「文ですか? 相談ということは、いつもの伯言殿ではないんですよね?」

「ええ……困ったことに、魏の者なのです」

「へ? なんでまた……」


 姜維と陸遜が未だに文通を続けている事は夏侯覇も知っていたが、それ以外の他国の人間が姜維に対して文を送ってくることはまずない。そもそも他国、特に魏の人間となど文を交わしているだけで密通を疑われかねないのだ。そんなことをわざわざ好んでする人間など、余程の考えなしでもない限り、そうそういるものではないだろう。

 しかし今回、姜維の下に届けられた文の送り主は、魏の人間だというのだ。どんな頭の悪い人間なのか、と、逆に興味が湧いてくるほどである。


「分かりません。何かの策だろうかとも考えたのですが、そういう内容にも見えなくて……」

「それで、差出人は?」

「鍾か――」


 口元を押さえ悩む素振りを見せながらも、件の文を広げ差出人の名を口にしようとした姜維だったが、それは質問を投げかけた夏侯覇本人によって遮られてしまった。


「鍾!? 鍾と言いましたか!? もしかして鍾会(しょうかい)ですか!?」

「え、ええ……ご存知なのですか?」

「鍾と言えば、孟徳伯父上……あ、曹操の頃より魏に仕える鍾繇(しょうよう)の一族です!」


 夏侯覇が亡命して間もない頃、費禕と姜維には語っていた注意すべき二人の人間の存在。その二人の内の一人が、他でもない鍾繇の一族なのだ。鍾繇自身は既に没しているが息子二人は今も魏に遣えており、弟の鍾会は俊才として有名であった。


「ああ、以前お話されていた……」

「色々と奇行が多い一族ですが、優秀なので魏では名家とされているんです。その奇行も、浮気をした癖に妻と寄りを戻せと陛下に命じられたから自棄になって山椒を大量に食べて暫く口がきけなくなったりだとか、甥の持つ名剣を奪うために偽の文を書いて奪い取ったりだとか、その甥に仕返しされて新居を奪われたりだとか、とにかくしょうもないものが多いんですよ……」

「は、はあ……」


 次々と夏侯覇が連ねる鍾家の奇行の意味不明さに圧倒された姜維は、生返事を返すしかなかった。時折一族におかしな人間が生まれることはあるだろうが、一族揃っておかしいというのは意味が分からない。姜維の常識に当てはまらない珍名家の話に、思わず眩暈すら覚える始末である。


「何故、そんな人間が貴方に文などを……」


 しかし、過去の奇行より夏侯覇が気にしたのは、“鍾会が姜維に文を書いた”という事実の方だった。

 鍾会が筆まめであることは、魏でも周知の事実である。何はともあれまずは文。そして本も執筆し、特に自身の母に関する記述は称賛三昧であり、見るに堪えないものであるらしい。

 そんな人間が姜維に文を送ってきたのだ。普通に考えれば、策か何かだろうと考えるものだが、姜維はそう見えないと語っていたのだ。なら一体なんなのだ、ということである。


「それなのですが……鍾会の方に関しては、以前聞いていた話とは、随分と食い違っているようで……」

「……どういう事ですか?」

「まずは、これを見てください」

「なになに……」


 終始困惑した様子を崩さない姜維に見せられた文の内容を確認すると、夏侯覇は言葉を失う。その内容が、あまりに理解しがたいものだったのだ。


『親愛なる姜伯約殿。貴方の数々の活躍を聞き、敬意の念を抱いたため、この度は文を(したた)めさせていただいた。私は貴方を尊敬している。だが、その才を蜀漢の地で埋もれさせておくのは実に惜しい。貴方は生粋の武人であるというのに、文官としての職務にも追われているというではないか。それでは武人として、満足に武器を振るう機会も失われよう。ならばいっそ、私の元で戦わないか。私は皇帝陛下とも繋がりがあり、発言権も持っている。故に、私のもとに来てくれれば、蜀漢よりも厚遇すると約束しよう。そして、出来ればこの未熟な鍾士季の師となってほしい。良い返事を期待している』


「……なんですか、これ」

「見ての通りです」


 どこから突っ込めばいい、一人称が違う事か。それとも、あの不遜な鍾会がしっかり遜っている事か。もしくは、この文の他に同じ筆跡で内容が全て違いながらも、全て姜維に熱烈な感情を訴えかけている文がまだ大量に卓の上にある事か。

 頭が痛い、と夏侯覇が思わず口にしてしまいたくなる程には、酷い現実であった。


「まるで恋文ですね……」

「やめてください……ぞっとします」


 青い顔で身震いする姜維だったが、文の内容については強く否定もしないため、少なからず同じようには感じていたのだろう。もしかすると、本当に恋文なのでは――などと趣味の悪い勘繰りをしてしまう夏侯覇だったが、それはまず思考の端に追いやることにした。目下の問題はそこではないからだ。


「……とりあえず、気味が悪いのでこれは破棄しましょう。残しておくと、貴方の為にもなりません」

「ええ……少し悪い気もしますが、そうします」

「返事はどうしますか?」


 言葉とは裏腹にさっさと文を纏めてしまった姜維の態度からも、よほど気味悪がっていたのだろうというのは見て取れる。寧ろ、夏侯覇が冗談を口にするまで表情に出していなかった事の方が奇跡だろう。

 そんな姜維が返事を返したいと思う筈もなく――


「勿論、書きません。あらぬ疑いを掛けられかねませんし」

「それを聞いて安心しました」


 深々と頷いた姜維は、そう力強く答えた。夏侯覇としては、「あらぬ疑い」がどこに掛かっているのかを問いただしたいところではあったが、流石に茶化す状況でもないため大人しく姜維に合わせるのだった。


「ですが……一応、文偉殿には報告するべきでしょうね」

「ええ、なんとなく反応の想像は付きますが……」

「……絶対酒の肴にしますよ、あの人」

「愛されてますねえ」


 纏めた文を片手に持ち、気が重いです、と呟く姜維の表情は既に費禕の反応を予想したのか疲れ切っていた。 

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