一章 三
翌日、昼過ぎに野営地を出発した夏侯覇、姜維、関索は、漢中の将軍府へと訪れていた。
現在かの地では蜀の宰相が幕府を開いており、首都成都の次に栄えている町でもある。しかしその実態は軍事要塞としての側面が強く、町の北部には城壁がそびえ立ち兵が常に巡回している等、物々しい雰囲気を醸し出していた。実際、漢中は先帝劉備の時代から防衛拠点として重要視されており、常に魏延、王平といった猛将・勇将が配備されていたのだ。
「仲権殿、此方に」
姜維に連れられその将軍府の一室へ招かれた夏侯覇は、部屋の奥に座る壮年期程度の文官然とした風貌の男の前に出される。
「君が、夏侯仲権殿か。俺はこの国の大将軍、費文偉だ」
費禕、字は文偉。大将軍、そして録尚書事を兼任している蜀漢の宰相である。元々政治家として優れた才能を発揮していたが、戦場に赴き参謀としての経験も多くある人物だ。
予め、大将軍に会わせる、と宣告されていた夏侯覇はそれなりに緊張しつつ臨んだのだが、当の大将軍本人の態度はいたって呑気なものであった。冷静に真偽を見極めようとしていた姜維、問答無用で警戒心を露わにした関索と異なり、費禕は古くからの友人に相対するかのように朗らか且つ、気さくな笑みを夏侯覇に向けてきたのである。全く予想だにしない反応を向けられ、夏侯覇は思わず言葉を失ってしまう。が、蜀の人間にとっても慣れたものではないらしく、横目で姜維の様子を盗み見れば溜息を吐きながら軽く首を振っており、彼も費禕の態度に呆れているようにも見えなくもない。
「伯約、報告はどうなっている?」
「仲権殿の言の通りです。司馬懿が息子や支援者達と共に謀反を起こし、曹爽、夏侯玄とその一派を処刑した、と」
「なるほどな。確かに彼の言葉に相違はないか」
費禕に読ませるように報告書らしきものを卓に広げ、淡々と姜維はその内容を要約する。その横で行儀悪く卓に片肘をつき、指先で顎の無精髭を撫でながら報告書を覗く費禕の態度には呆気を取られたものの、己の進退は目の前の男に掛かっているのだ。そのあまりの緊張感のなさに不満の声を上げてしまいそうなところを夏侯覇はぐっと堪え、呑気な宰相の言葉を待った。
「……ま、彼が嘘を吐く理由はないだろうな」
「ええ。加えて、現在国境付近では、厳戒態勢で何者かを探しているとの報告もあります。間違いないでしょう」
「――と、いう事だ。俺達の方は君を信用しよう。正式な処遇が決まるまで、君の身柄は俺が預からせてもらうが、悪いようにはしないから安心してくれ」
「は……はい、お願い致します!」
一国の宰相が下すにはあまりにも情緒が無く、且つあっさりとした結論であった。もう少し疑って掛かった方がいいのではないか、と、疑われるべき人間である夏侯覇自身が心配したくなるほど寛容な処遇であったが、後にこれは費禕の悪癖であることが判明する。
費禕という男は降将をまるで疑わず無防備に信用してしまう悪い癖があり、別の悪癖と併せ姜維に注意されている場面を度々目撃することになるのである。
「ああ、それと……君の父だが、夏侯妙才殿で間違いないだろうか?」
「え……あ、はい。間違いありません」
思い出したように唐突に実父の名を出され、夏侯覇は反応が遅れてしまう。何故今ここで父の話が出るのか、父とこの国に戦以外の個人的な縁などあっただろうか、と思考を巡らせてしまった為だ。
定軍山で戦死した夏侯覇の父・夏侯淵の遺体が蜀に引き取られ埋葬された事は当然伝わっているが、それは父の死後の話である。そもそも、どんな経緯で父の遺体が敵国で丁重に埋葬されることになったのか、その理由は死後十数年経った今もなお実子である夏侯覇さえ知らないままだ。
「そうか。なら、君の命と立場は保証されるだろう。安心してくれ」
「は、はあ……」
「文偉殿、どういう事です?」
夏侯淵の話が出されたことには、姜維も疑問を抱いたようだ。怪訝そうな面持ちで費禕を見るが、当の費禕は肩を竦め理由の明言を避けたので、ますます二人の疑問は膨らむのであった。
「なに、以前子昂から聞いていた話に一つ心当たりがあってな。彼の存在は、この国にとってなくてはならないものになるだろうよ」
「子昂殿が?」
「ま、子細は陛下との謁見までのお楽しみというやつだ。それまでは、責任を持って俺が預かろう」
そう言い切ると、部屋を用意させるよう姜維に指示し費禕は部屋を出て行く。飄々としながらもあくまで友好的な態度を崩さなかった費禕の背を、夏侯覇は物珍しさを通り越し珍獣でも見るかのような心境で眺めていたが、兵に指示を終えた姜維に促され部屋を後にした。
謁見までの間に。と、あてがわれた部屋へ案内されながら、夏侯覇は国境付近の魏軍の様子を教えられていた。夏侯覇は自分ひとりを捕まえるために国境付近に軍を配備していると聞き仰天したが、皇帝の外戚が相手であれば当然だろうと姜維は首を振る。本人に自覚はないが、夏侯覇という男は立場上、政治的に重要な人物であったのだ。
「郭淮は、国境付近で貴方を見失ったようですね」
「ああ……確かに、国境を過ぎた辺りから、追手がありませんでした」
「斥候の報告では、今も血眼になって貴方を探しているらしいですよ。漢中まで辿り着けたのは、幸運でしたね」
先刻、費禕に報告した際は人物を濁して話していたが、魏軍が厳戒態勢で探している相手というのはやはり夏侯覇のことであったらしい。
国境付近、つまり夏侯覇が倒れていた漢中の北部の辺りは、山々が連なっている上森が広がっており馬が入りづらい。郭淮の兵が全て騎兵であった事に加え、それまでの道中に馬を失っていた夏侯覇が木々に紛れる為に徒歩で森に入り込んだ事が功を奏し難を逃れたのだった。
とはいえ、そこから少し南に進んだところで、疲労と空腹により倒れてしまったわけではあるのだが。
「もう、そこまで調べ上げているとは……蜀の諜者と斥候は凄いですね」
「そうです、とても凄いのです」
誇らしげに胸を張る姜維の姿に、夏侯覇は思わず口元を綻ばせる。己の処遇が悪いものにはならない、と費禕に宣言され安堵したことで漸く緊張が解けたのだ。
敵として相対していた間は恐ろしい勇将という印象であったが、姜維という男は存外面白い性格をしているのかもしれない。と、敵の頃には知り得なかった事実に、夏侯覇は温かいもので胸が満たされるのを感じていた。