七章 一
蜀魏間の国境での小競り合いは度々起こるものの、比較的平穏に日々が過ぎていたある日の事である。
「よっ、久々に来たぜー」
突如漢中に現れたのは、武装し軽い荷物を片手にぶら下げた関興であった。
侍中の彼が理由もなく成都を離れることも、漢中に訪れることもない。また、漢中に訪れる場合も本来であれば前もって連絡がある筈だが、これといった予告もなく急に現れたため、書庫で書類の整理を行っていた姜維は驚きに言葉を失うのだった。
「安国殿……何故、こちらに?」
「そりゃまあ、お仕事よ。こっちも色々と忙しくてなー」
「連絡をいただければ、兵を送りましたのに……」
無用心だと肩を竦める姜維の背を軽く叩きながら暢気に笑う関興は、徐に一枚の書簡を懐から取り出すと、それを姜維に差し出した。内容は、武官の異動命令とその人物の名簿である。
名簿を確認した姜維は、武官だというのに見覚えのない名ばかりが連なっていることに首を傾げたが、すぐに合点がいった。全て、仕官して間もない若手なのだ。
「最近、軍への仕官が多くてな。ま、成都じゃ護衛か拠点守備ぐらいしかすることがないから、見込みがあるのをこっちに送るついでにな」
「……随分、多いのですね」
文官の仕官は後を絶たない蜀漢だが、若手の武官の仕官などここ数年はほぼなかった。それもこれも、諸葛亮が没してしまい軍そのものが勢いを失っていたからなのだが、ここにきて立て続けに十数名もの仕官があったというのである。姜維が思わず声を上げてしまうのも無理はなかった。
「最近小競り合いが多いし、今なら功績を挙げられるとでも思ったのかね? ま、なんにしても今までが少な過ぎたんだ。人手が増えるのはいいことだと思うよ」
「ええ。これだけの人数が育ちきれば、各拠点ももう少し安定するでしょうね」
「そういうこと。とりあえず、あいつらの今後のことは伯約と文偉殿に任せるよ。おれは別件があるからな」
元々、関興の用事は別にあったのだ。ついでだとは本人も語るが、もののついでで新人の武官を纏め上げて漢中までの道中を無事歩いてくるのも楽ではない。そんな器用な侍中を労いながら感謝を口にした姜維は、内容をある程度確認し終えた書簡を関興に返すと、ふと思いついたように声を上げた。
「他に護衛はつけていないのですよね? お帰りの際は誰かつけましょうか」
「悪いな。索あたりでいいよ」
「兄上なら、喜んで行くでしょうけれど……一応、将軍ですからね?」
「あはは、分かってるよ。冗談冗談。あいつも忙しいもんな」
ここ最近の関索は、以前の自由気ままな行動が嘘のように将軍府内を忙しなく走り回っており、蜀魏間の小競り合いの頻度が増えたことから、姜維や夏侯覇と共に国境付近の防衛に出ることも多かった。故に、そう簡単に彼方此方へ行かせる訳にはいかないのである。
それを知っていて冗談を口にする関興の態度は流石としか言いようがないのではあるが、それでも一応釘を刺しておきたくなるのが姜維という男であった。
「もう……せっかくです、顔を見て行ってください。兄上も喜びます」
「ああ、仕事が終わったらちょっと遊んでいくさ」
手を振りながら書庫を後にした関興を眺めながら、姜維は窓の外が俄かに騒がしくなっていることに気付く。どうやら、関興が連れてきた若手の武官が鍛錬場に集められているようである。
外を眺めてみれば、早速教育係に任命されたのか関索がいつもの緊張感のない緩い調子ではなく、上官として真面目な様子で若手の武官に何らかの教えを説いている様子が見えたため、珍しいこともあったものだと姜維は驚きつつも感心しながら、書類整理に戻ったのであった。
なお、関索の様子を更に近い距離から眺めていた夏侯覇の耳には、頻繁に「姜将軍の言うことは絶対に聞くように」「姜将軍には最大の敬意を払うように」「姜将軍に無礼を働いたら僕が許さない」といった、あまりにも独善的な指導内容が聞こえてきていたため、慌てて止めに入ったのは言うまでもない。




