六章 五
「――失礼します。姜伯約です」
その日、姜維は漢中にある蒋琬の邸に訪れていた。
「おお、伯約か……このような姿で、すまぬな」
「ご、ご無理をなさらずに……! そのままで大丈夫ですから……!」
「いや、お主の前でこのような情けない姿はなぁ……」
寝室に案内された姜維は寝台から起き上がろうとする蒋琬を慌てて止めたが、それでもと渋る恩人の背を支えながら半身を起こす手助けをするのだった。
蒋琬は、病により数年前に引退している元大司馬である。蜀に降った姜維の最大の理解者であり、後見人であり恩人であった。そのため、引退した後も度々姜維は見舞いに訪れていたのである。
「あまり無理をされては、お体に障ります……」
「いや、いい。自分でも分かるのだ。私に残された時間は、あまり長くはない」
「公琰殿……」
起き上がった蒋琬は、窓の外を見つめそう静かに口にする。
蒋琬が患っている病は、命に関わるものだということは伝えられているが、具体的にどんな病であるのかは姜維も教えられていないのだ。病状も分からなければ、現在どの程度苦しんでいるのかも分からないこの状況は姜維をやきもきさせたが、それでも蒋琬は事実を語ることはない。故に姜維も、無理に聞き出そうとはしないのだった。
「こればかりは天命だ、抗えまい。だが、お主と文偉に面倒を押し付けて逝く事だけが、どうにも申し訳なくてな」
「面倒などはございません……私は今も、公琰殿の志を叶える事こそが、最も重要であると考えております」
姜維の目に迷いはない。数年前に費禕に熱心に語ったように、蒋琬の志を継ぎ北伐を行う――普段こそ表に出さないが、姜維のその考えは今も変わりはないのだ。
しかし、蒋琬は首を横に振り苦笑を見せる。
「……そんな事はない。私が死ねば、残る者の世になるのだ。その時、この世はまた違うものになるだろう……私の時と同じようにはいくまい」
「公琰殿……」
「判断を見誤るなよ、伯約。お主は賢いが、直情径行のきらいがある……視野を広く持て。そうして見えてくるものこそが、お主にとって最も大切なものだ」
まさか、蒋琬に窘められるとは思いもしなかったのだろう。姜維は投げかけられた言葉に酷く驚いた様子で目を見開くが、それでも目一杯時間をかけて頷く。
「……だが、私の志を受け継いでくれる者がいる事は、嬉しいものだ……丞相もきっと、このような心持ちで逝かれたのだろうな……」
「そんな……それでは、まるで……」
今にも死ぬのではないかと思わせるような言葉選びに姜維が狼狽えたことに気付くと、蒋琬はふっと肩の力を抜き笑い出す。姜維が蒋琬の一挙一動に大袈裟に反応するものだから、つい揶揄ってしまったのだ。
「はは、まだ死なぬよ。話し足りんのだ、少し近況を聞かせてくれ」
「もう……心臓に悪いので、おやめください……」
「あまりに不安がるものだから、ついな」
揶揄われていたことに気付いた姜維は唇を尖らせて蒋琬を非難するが、費禕に向けるものよりもずっと覇気がない。恩人という事もあり蒋琬に強く出ることが出来ない姜維では、これが精一杯の不満の表現方法なのである。
それでも、蒋琬は珍しいものを見たかのように僅かに片眉を上げる。以前の姜維なら、表情に出すほど不満を露わにすることはなかったのだ。
「――で、最近新しく入った夏侯一族の者は、どうなのだ?」
「……彼なら、今は私の副将になっております。すっかり軍にも馴染まれ、兵達も慕っているようです」
その動揺を微塵も出さずに、蒋琬は近況の報告を促す。“夏侯一族の者”とは、当然夏侯覇のことを指すだろう。
夏侯覇が亡命して以降、直接姜維が蒋琬の見舞いに来れたのは今回が二度目であった。以前の見舞いは夏侯覇の亡命後、成都に異動するまでの間の数日の間に行っている。当時は夏侯覇の人事も決まっておらず、当然功績も上げていない状況であったため、蒋琬に報告するような情報がなかったのだ。
ただ、蜀将として受け入れられたことは、費禕から伝わっていたようだ。
「ほう、お主の下に就けたか……珍しいものだな。文偉にしては、露骨な人事ではないか」
「露骨、ですか……?」
「あれは以前から、お主の味方作りに熱心でな。此度の人事も、疑問に思わなかった訳ではあるまい?」
「ええ、当然追及しましたが……」
「答えぬだろうな」
遂に声を上げて笑い出した蒋琬とは対照的に、姜維は困惑した様子で寝台の脇から恩人を見上げていた。
蒋琬は費禕と個人的な親交は持っていないが、直接の部下であり後継として傍に置いていた為、その性格は十分に熟知している。故に、自分が第一線を引いてからの費禕の露骨な行動には、常に笑いを堪えていたのだ。
一方姜維は、費禕の部下という立場もあり、個人的な親交がありながらもその真意にはまだ気付けていないのだろう。口元を押さえながら、真剣な表情でその真意を考え込むのであった。
「しかし、何故……私の味方作りなど……」
「成都の文官連中とは、未だ深く付き合ってはいないだろう?」
「え、ええ……親しくしてくださっているのは、侍中の皆様と、伯苗殿……でしょうか」
肩を竦め、蒋琬は「だからこそ、よな」と零す。
姜維は漢中や成都に滞在する武官とそりが合う一方、成都の文官とはあまり親しくしていない。元より接触が少ないという理由もあるが、基本的に武官であり余所者である姜維は、その多くが蜀漢の本拠地の出身者である文官と個人的な親交を持てなかったのだ。とはいえ、嫌っていたり嫌われていたり――という程、険悪な仲という訳でもない。故に、姜維自身はそれをあまり重視していなかったのである。
「……文偉殿も、病を抱えていらっしゃる訳では……ありませんよね」
「それは、私には分からぬよ。だが、いつ何があるか分からぬ。あれも念のため、それに備えているだけだろうな」
「……公琰殿には、全てお見通しなのですね」
「何年、お主らの上司をやったと思っている」
己が想像よりも早く後を継ぐことになってしまうのではないかと恐れ、姜維は思わず顔を青くし恐る恐る蒋琬の顔を覗き込むが、それに応えられるほど、蒋琬も費禕の様子が分かるわけではない。とはいえ、費禕のそれがいつかの為の備えであることぐらいは分かるのだ。
華奢な肩をぽんと軽く叩き、宥めながらも心の準備はさせるのだった。
「…………少し不安なので、文偉殿の事はよく見ておこうと思います」
「ああ、それがいい。あれは酒を飲むと油断するから、宴などは注意してやってくれ」
それでも不安を完全には拭えなかったらしく、姜維はそう言葉を零し顔を上げる。病だけでなく、何故か宴の席の事まで注意を促す蒋琬に一度は首を傾げたものの、なにか思い当たる節でもあったかのようにあ、と声を上げ姜維は即座に頷いた。
ただでさえ不用心な費禕は、夏侯覇以降も亡命者や投降者があるとわざわざ晩酌をしに行くことがあるのだ。宰相としては、これ以上ない程に油断しきった危険な行動であるため、姜維はそれに思い当たったというわけである。
「――さて、私は少し眠るよ。また来てくれると嬉しい」
「勿論です、次は果物でもお持ちしますね」
「それは良いな、楽しみにしている」
気怠げに寝台に横になる蒋琬に布団を掛けると、姜維はそれ以上仕事の話を口にすることなく、部屋を出たのだった。




