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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
六章
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六章 四

 朝から騒々しい足音が将軍府内に響く。そのたった一人で騒々しくしている男は、食堂に入るなり光の速さで姜維の下へ駆け込んできたのだった。


「は、伯約! 一体何がどうなってるの!?」


 一人で三人分は煩い関索が、二ヶ月の任務から戻ってきたのである。

 その関索は、最近姜維が朝食をしっかり取るようになったという話を小耳に挟み、真偽を確かめる為に全力で走ってきたのだ。しかし姜維は、いつも通りの騒々しさの義兄に狼狽えることもなく、その無事を喜び笑みを浮かべる。


「兄上。お疲れ様です、ご無事で何よりです」

「ありがと~! ただいま!! ……じゃなくて!」


 箸を置き席に着くよう促しながら、義兄の為に新たに茶を淹れる姜維の気遣いに満面の笑みを見せた関索であったが、同じ席に見慣れない青年が居ることに気付くとまた騒々しく声を荒げた。


「……この子、なに!?」

「文偉殿の部下です」

「お初にお目にかかります、関将軍。先日この漢中に配属されました、郤令先と申します」

「あ、うん。僕は関維之、伯約の義兄だよ。よろしく……じゃなーい!」


 その場で立ち上がり関索に向けて深々と拱手した郤正に笑顔で応えるものの、関索の疑問は膨らむばかりであり、その騒々しさは一向に収まる気配がない。義兄の騒々しさに慣れている姜維も流石に異常を察したのか、茶を淹れながら何事かと眉を顰める。


「どうしたのですか?」

「なんでこの子が伯約と朝ご飯食べてるの…!?」

「なんでと言われましても……」


 どうやら関索の現在の最大の疑問は、郤正の存在らしい。

 言われてみれば、仕官して間もない新人と次期宰相が同じ卓で食事をしているという状況はおかしなものである。しかも畏まった場ではなくただの朝食なのだから、関索が疑問を抱くのも無理はない。が、姜維は特に気にしている様子もなく、郤正は郤正で涼しい顔を崩さない。


「姜将軍は朝食を抜きがちなので、費将軍の命で私が監視させていただいております」

「……と、いうことでして」


 郤正が姜維を説得し朝食を取らせた――という話は、すぐに費禕の耳に届いた。現在では、面白がった費禕にその腕を見込まれ、朝は姜維が朝食を取るよう監視の任を命じられているのだ。それには始め抵抗した姜維であったが、流石に任を命じられただけの郤正本人には強く出れなかったのか、結局は流されてしまい今に至る。


「もしかして、伯約にご飯食べるよう説得できたの……?」

「はい」

「僕の説得すら聞いた事ないのに……!?」

「す、すみません……」


 納得できないと全身で表現しながら悔し気に歯噛みする関索から目を逸らす姜維とは対照的に、郤正はその場に立ち上がると関索に向き直り笑みを見せる。


「関将軍、勢いです。説教には、勢いと理詰めが大事です」

「勢い……」

「有無を言わさぬ勢い、そして反論のしようのない理詰め……そのようにして、説くのです」


 一体何を吹き込んでいるのだと溜息を漏らす姜維をよそに、熱心に説教の心得を説く郤正に押され関索は大人しく講釈に耳を傾けていたが、ふと首を傾げた。


「……もしかして、こういうの慣れてる?」

「はい。私は子供の頃から、一人で生きておりましたので」


 郤正は、父が魏に降った上、母の再婚により家を出ざるをえなくなり、子供の頃から一人暮らしをしている苦労人である。その情報は費禕には知られていたが、姜維以下の文武官たちには知られていないものであったため、姜維も関索も話を流し聞いていた食事中の周囲の人間も驚きにざわつくのだった。


「ひ、一人……!?」

「それは本当ですか、令先先生……!?」

「…………先生?」

「きょ、姜将軍! その呼び名はお止めくださいと、申したではありませんか……!」


 目を丸くした姜維が思わずその場に立ち上がるが、姜維が立ち上がる程驚いているという珍事よりも、その口から出た聞き慣れない呼称に関索は唖然とする。関索は、姜維が誰かに対し、「先生」などと呼んだところは今まで一度たりとも見たことがなかったのだ。

 しかし、呼ばれた本人は大いに狼狽え姜維の口元を咄嗟に押さえる。


「……えっと……二人って、どういう関係になってるの?」

「あ、いえその……私が朝食以外にも色々とお世話をさせていただいていたら、いつの間にか将軍が……」

「先生です」

「このように……」


 困惑する関索は、狼狽える郤正とどこか得意げにも見える姜維を交互に眺め、肩を竦めた。

 世話といっても郤正は姜維の不健康な私生活に口を挟んでいただけであり、その言動は先生よりは親のそれではあったのだが、逐一的確な理由付けをされ窘められたことで姜維は郤正に対し敬意を抱いてしまったらしい。しかし、そんな呼称は郤正としては不本意なものであり、止めてほしいと何度も伝えているのだが、姜維は頑なに譲らないのであった。


「…………なんか……いいなぁ……」

「えええ……」

「こらこら、二人で新人を困らせるのはやめてくれよ」


 姜維から敬意を抱かれるほどすぐに信頼を勝ち取った郤正が羨ましい関索は、拗ねる様にその場で膝を抱えたが、困惑する郤正へ助け舟を出すように現れた費禕に頭を軽く撫でられ顔を上げる。


「それと、維之。義弟が心配なのは分かるが、まずは報告を俺の所に寄越してくれないと困るぞ」

「す、すみません! 急いで報告書を用意します……!」

「ああ、よろしく」


 慌てて走り去る関索を見送った費禕は、先に料理を頼みに一旦離れたものの、すぐに姜維たちの卓へ戻り先刻まで関索が座っていた席に着く。慣れた様子で茶を淹れる郤正から碗を受け取った費禕は、礼を口にしながら郤正へ次の仕事を言いつけると、漸く一息ついたのだった。


「……文偉殿、私の監視はいつまで続くのですか……?」

「君がしっかり朝食を取るようになったら、外してやろう」


 不満を口にしながらも言い返せずに言葉を詰まらせる姜維へ、にやにやと嫌な笑みを向ける費禕に同意するように郤正も頷き、残っていた朝食に口をつけ始める。関索が騒々しく現れたため、食べるに食べれなかったのだ。

 郤正以上に食事を残していた姜維はその残りを少しずつ口に含むが、その動きは緩慢である。姜維はあまり朝食を食べる習慣がないからか朝だけは食が細いのだが、今日はいつにも増して食事が終わるのが遅いのだった。


「君は仮にも次期宰相だぞ? もう少し、自分の身体には気を付けてもらわないと困るんでな」

「そんな、子供でもあるまいし……」

「子供の様なものだろう。な、令先」

「はい……失礼ながら、朝食を抜くなど子供以下です。私の目がなくとも、しっかりお取りください」

「うぐ……」


 費禕に促され申し訳なさそうに眉尻を下げながらも、はっきりとした物言いで窘める郤正の言葉は、思いの外深く姜維の心に刺さるのだった。

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