六章 三
その日、遂に姜維よりも若い文官が漢中へ異動してきた。
「成都より参りました、郤令先と申します」
郤正、字は令先。仕官して一年にも満たない若い文官ではあるが、年の割には非常にしっかりしており、秘書吏の官位を授けられている。
そんな若者が漢中に配属されたため、将軍府内は少しばかり騒がしくなっていた。姜維以来の若い文武官だったという事で、物珍しさもあったのだろう。
「宜しくお願い致します、姜将軍」
「ええ、宜しくお願いします」
執務室の姜維のもとへ挨拶に訪れている郤正の姿を、部屋の外から覗き込む野次馬がそれなりに居たのだが、二人ともそれには一切触れずに和やかに挨拶を交わしていた。
郤正は少年の雰囲気を残す、整った顔立ちの青年であった。
「令先殿は、お若いですね。仕官して間もないのでは?」
「はい、半年ほど前に仕官したばかりです。漢中にて、費将軍の下で働くよう仰せ付かって参りました」
「私が成都を離れた頃ですね……しかし、文偉殿の部下ですか…………頑張ってくださいね、令先殿」
己が離れた後に仕官したのなら、新人の顔を知らないのも無理はないかと姜維は納得しながら、費禕の部下になるその若者の今後を考えると、同情せずにはいられなかった。
費禕は基本的には問題のある上司ではないのだが、以前の夏侯覇の歓迎会のように突拍子もない事を思いつき、部下に仕事を任せることがあるからである。あの時も、事前に仕事を数日分片付けていたと本人は言っていたが、責任者の居ない状況で十数日を過ごすことになった部下本人・尹賞と梁緒は、費禕が漢中に戻るまで心労が絶えなかったらしい。
そんな部署に新人の文官が入るのだ。同情するのも当然と言えるだろう。
「ありがとうございます! あ、あとその……まだ元服したばかりですので、敬称も必要ございません。どうか部下として扱ってください、姜将軍」
「……分かりました。では、令先と呼ばせていただきましょう」
敵以外の人間を呼び捨てにする機会がなかった姜維は郤正の要望に一瞬躊躇うが、これからの事を考えれば慣れざるを得ないだろうと腹をくくり、首を縦に振るのだった。
その数週間後の朝、費禕の執務室から竹簡を抱えて退出してきた郤正を見かけた姜維は、初めての年下の文官という事もあり、手伝おうとそのいくつかの竹簡を取り上げる。
「その量では重いでしょう、手伝いますよ」
「姜将軍……!」
恐縮する郤正を制し抱えていた竹簡の半分程度を持つと、隣に並び歩きながら姜維は僅かに笑みを返した。己の時も様々な人物に助けられていたため、同じように誰かを手助けすることは姜維のちょっとした夢のひとつでもあったのだ。
それが叶えられた今、僅かばかりの満足感に思わず胸を弾ませていた程には嬉しい姜維であった。
「仕事には慣れましたか?」
「はい、費将軍には多くの事を学ばせていただいております」
「……彼の下で、そんなに生き生きとしている方は珍しいですね」
仕官して半年程度という事も手伝っているのか、郤正の表情は明るく輝いており、費禕の他の部下と比べても眩しい程の若々しさである。費禕の部下として円満にやっている文武官たちを多く知る姜維としては、その溢れんばかりの若々しさと生き生きとした表情は、異常としか思えないのであった。なにせあの費禕と円満にやっているのだ。親友は堅物として有名な人物ではあるが、費禕の部下たちは費禕の部下らしく飄々とした人物が多い。
しかし今、姜維の横で肩を並べて歩く郤正は、どちらかと言えば堅物の類なのだ。にもかかわらず、生気に溢れているのだから、郤正にとっては相性の良い上官だったのだろう。姜維の言葉の意味を理解していないのか僅かに小首を傾げた青年を見つめ、姜維はとんでもない大物が来たのかもしれない、と戦々恐々とするのだった。
竹簡を書庫まで届けると、姜維に深々と頭を下げ感謝を口にしまた忙しなく執務室に戻ろうとする郤正であったが、ぴたりと動きを止め未だ書庫内に居た姜維に向き直る。
「…………ところで姜将軍、朝食は召し上がりましたか?」
「え……いいえ、そういえば忘れていましたね」
この日、姜維は早朝から兵の訓練を行っており、丁度戻ってきたところで郤正と遭遇していた。そして、訓練までの間は昨夜から執務室に閉じこもり政務に勤しんでいたため、食事を取っていなかったのだ。しかし、これらは日常茶飯事であり、そのまま昼まで食事を取らないことも多い姜維にとっては特に問題のある行動ではない。
それを正直に答えた姜維は、いつもの事だから心配ないと付け加えたのだが、郤正は一瞬にして目が据わってしまう。
「それはいけません! 武官も文官も体が資本、食事は疎かにしてはなりません!」
「え」
「費将軍から聞かされております。姜将軍は、何かに熱中すると寝食を忘れる――と」
「あ、あの人は……」
「一刻も早く食事をお取りください」
「い、いえ……私は……」
「駄目です。朝食は抜いてはいけません!」
何故か年下の新人に物凄い剣幕で叱られた姜維は、食堂に向かうところまで郤正にしっかり確認されてしまったため、引くに引けずそのまま遅めの朝食を取ることにするのだった。
「――あれ、こんな時間に食べてるなんて珍しいですね?」
そんな姜維が神妙な面持ちで朝食を取っていた食堂に、食事は絶対に欠かさない夏侯覇が訪れる。が、普段は居ない人物の姿に、思わず料理を頼むよりも先に声を掛けていた。姜維の朝食は、朝早いか食べないかのどちらかしかないことは夏侯覇も知っていた為、わざわざ遅くに食べているその姿は珍しいどころか初めて見るものなのだ。
「ええ……その、窘められまして……」
「え、誰に?」
「令先です」
ばつが悪そうに答える姜維の表情から、並の窘められ方ではないことは夏侯覇も察したが、その犯人が最近漢中に配属されたばかりの新人文官と聞き、言葉を失う。
「……つ、強いなぁ……」
頑固な姜維に言う事を聞かせるなど、並の人間にできる事ではない。今までも何度か様々な人間に朝食を抜いている事を咎められていたにもかかわらず一切聞かなかった姜維が、たった一人の新人が窘めただけで素直に朝食を取っているのだ。一体どんな窘め方をすれば素直に言う事を聞かせられるのか、と秘訣を聞きに行きたい程であった。




