六章 二
姜維が数ヶ月ぶりに手合せを行っていたその日、成都から一人の人物が漢中へと訪れていた。
「長旅お疲れ様、伯苗殿」
鄧芝、字は伯苗。蜀漢を代表する外交官であり、呉の皇帝・孫権にも大変気に入られている人物である。
彼は将軍府の執務室に訪れると、年下とはいえ上官である費禕と目を合わせる事もなく、軽口にも反応せず、淡々と事務的に費禕との報告を行っていたのだった。鄧芝は真面目ではあるが、非常に偏屈な人間なのである。
「……伯約は」
「鍛錬場に居るぞ。珍しく手合せをしているから、見ていくか?」
「いや、いい。部屋に直接行く」
「なら、夕頃には部屋に居るように伝えておこう」
相変わらず素っ気無い態度の部下ではあるが、費禕としては見慣れた反応であった。なにせ、費禕が仕官する以前から彼は劉備に遣えており、その頃から既にこのような態度で他の面々と相対していたのだ。流石にその態度の理由や意図も、少しは分かるようになるというものである。
とはいえ、それをどうにか出来るほど費禕は鄧芝と親しい仲でもない。また、己の仕事にも支障はない為、面白がってその偏屈ぶりを眺めるだけなのである。
そんな費禕は、夏侯覇との手合せにより久々に人前で汗を流していた姜維の居る鍛錬場へ訪れると、手合せが終わった頃を見計らい声を掛けていた。
「――伯約、伯苗殿が夕頃に部屋に行くと言っていたぞ」
なにせ、偏屈な鄧芝が評価し、普通に応対する数少ない相手が姜維なのだ。せっかく気に入られているのに、わざわざ偏屈の犠牲に遭わせる必要もない。そう考える費禕は、二人の関係が出来るだけ円滑に進むように努めていた。
「分かりました、すぐ準備します!」
「ああ。まあ、そう慌てることもないとは思うが……」
鄧芝が来たと聞いた姜維は、激しい打ち合いによる疲労も見せずに衣服を正すと、夏侯覇へ礼を口にしその場から颯爽と立ち去る。その身の翻し方があまりにも軽やかで見慣れないものであったため、夏侯覇は目を丸くしたままその背を見送っていた。
「…………伯苗殿とは、件のなかなか人を褒めない方ですか?」
「ああ、気を付けろよ。伯約以外は滅茶苦茶に言われるぞ」
「め、めちゃくちゃですか……?」
未知の人物への好奇心を膨らませつつある夏侯覇にそう釘を刺し、費禕は肩を竦める。あの偏屈ぶりを直に見れば、流石の夏侯覇もその好奇心を潜めるだろうと予想していたのだ。
しかし運の悪いことに、夏侯覇が先に目撃してしまったのは、素直な鄧芝の方であった。
「お久しぶりです、伯苗殿。道中お疲れ様でした」
姜維の部屋から聞こえてきた声に釣られるように夏侯覇がこっそり部屋を覗き見ると、部屋の備え付けの椅子に座り卓を挟んで会話している二人の様子が視界に入る。夏侯覇と別れる前は鍛錬用の道着を着ていた姜維は、既に着替えを済ませており、普段見慣れた服で席に着いている。
そしてその向かいには、初老の男がひとり姿勢良く座っていた。
「それがしの方こそ、会談を任せてしまいすまぬ。困ったことはなかったか?」
「いいえ、伯言殿には随分と良くしていただきましたし、伯苗殿と文偉殿が下地を整えていてくださっていたおかげで、私は殆どすることがございませんでした。ありがとうございます」
「いや、元はと言えば、それがしが別件で出れなかった事が原因であるからな……」
どうやら、費禕の代わりに会談に向かう筈だった外交官とは、鄧芝のことであったらしい。緩く首を振り顔を顰める鄧芝に対し、お気になさらずに、と言葉を掛ける姜維の声からは感情を偽っている様子は見られない。姜維が会談を引き受けたことが発端となり、ある意味姜維自身は大事に見舞われたのだが、それを敢えて伝える気はないようだ。
もっとも、それは夏侯覇以外の誰にも伝えられていない話ではあるのだが。
「今回は引き継ぎに参った。明日から少々、時間を貰えるか」
「はい、勿論です。またご指導いただければ、私も幸いです」
瞳を輝かせながら頭を下げた姜維を眺め、鄧芝は僅かに言葉を詰まらせる。夏侯覇の目には、鄧芝が言葉を探してやや困惑しているようにも見えた。
滅多に人を褒めないというのだから、気難しい性格に違いない。きっと、無邪気に慕われる事に慣れていないのだろう――そう夏侯覇は勝手に解釈しながら、二人の様子を引き続き眺めていた。
「……お前は……会談も任せられる程だ。もう、覚えることもないだろう」
「いいえ、私の外交の師は伯苗殿です。まだまだ学ばせていただきたいことは、山ほどございます」
「そうか……相変わらず、勤勉で謙虚だな」
「私はまだ、未熟者ですので」
首を振り謙遜する姜維を見つめ目を細めた鄧芝は僅かに鼻で笑うが、それは馬鹿にする意図があるわけではなく、どちらかと言えば苦笑に近いのだろう。事務的で無感情とも思える声色が僅かに和らぎ、姜維を励ますようにその頭を軽く撫でるのだった。
「自信を持て。お前は十分次期宰相に相応しい仕事ぶりの、立派な人物だ」
「あ、ありがとうございます……!」
頬を紅潮させて素直に喜ぶ姜維からも見て取れる程、鄧芝の応対に何も問題のある要素は窺えず、接触に際し気を付ける必要があるとも思えない。そんな本来は貴重である素直な鄧芝を目撃してしまった夏侯覇は、ただ疑問符を浮かべるばかりである。
「やあ、なかなかいい趣味だな。仲権殿」
そんな夏侯覇の姿をどこからか見ていたのか、突如現れた費禕に覗きを窘められつつ揶揄われてしまう。だが、それでも疑問の方が大きく、夏侯覇は謝罪や狼狽するより先に彼に詰め寄っていた。
「費将軍……彼、めちゃくちゃ褒めてるじゃないですか」
「あ? いや……前も言ったが、あれは伯約にだけなんだ」
「…………本当に……?」
流石に反省しないことまでは想定していなかったのか一瞬目を丸くした費禕であったが、姜維の部屋から聞こえてくる声の正体を瞬時に理解すると、あー……と気の抜けた声を上げながら頭を掻く。
よりによって、綺麗な鄧芝を先に見てしまったのだ。これでは夏侯覇も意気揚々と接触しに行きかねないが、この調子ではもう何を言っても夏侯覇の好奇心を抑えることは出来ない事も理解していた費禕は、疑問には肯定で返すものの止める気はもうなかった。
費禕の最初の忠告を聞かなかった夏侯覇は、翌日に廊下で鄧芝と鉢合うと、特に警戒することなく挨拶を交わすのだった。
「……お前が、夏侯将軍か」
「はい。お初にお目にかかります、夏侯仲権と申します」
拱手する夏侯覇に向けて「鄧伯苗」と簡潔に名乗った鄧芝は、鋭い視線を向けながら軽く舌打ちをする。目を丸くした夏侯覇を気にも留めずに両腕を組むその態度は、もうどうしようもない程に不遜で尊大だった。
「……お前、伯約の副将で満足しているのか?」
「あ、はい」
「ふん……気味の悪い奴だ」
姜維への態度と比較すると、まさに雲泥の差である。言葉選びの辛辣さもさることながら、夏侯覇と目すら合わせないのだ。これは人によっては怒りを買う、どころの騒ぎではない。確実に嫌われる要素の塊でしかないだろう。
話はそれで終わりと言わんばかりに颯爽と踵を返す鄧芝の背を呆然と眺めていた夏侯覇だったが、はっと意識を取り戻すとそのまま費禕の居る執務室へ駆け込んだ。
「あの人、めちゃくちゃ偏屈じゃないですか……!」
「だから言っただろう」
遅れて湧いてきた不満や苛立ちをぶつける様に当たる夏侯覇を費禕は笑って受け入れ、酒を差し出しながら宥めるのであった。




