六章 一
左慈と邂逅して以降、夏侯覇の以前の生の記憶は次第に明瞭になっていた。
自覚してしまったからなのか、方士という特殊な人物と接触したからなのかは分からないが、それは夢の様にあやふやだった当時の生活も思い出されるほどにまで明瞭になっており、しかし現在の生活とは交差しないものである。
つまり、気にはなるが今の生活にさほど支障は出ない。という程度のものであった。
とはいえ、夏侯覇は器用な性格ではない。己の状況の差異ならばともかく、周囲の人間が大きく異なると多少は態度に出てしまうのだ。特に姜維については、以前の生と異なる点が群を抜いて多いうえに立場上接触が多いため、どうしても疑問や困惑が顔に出てしまうのが難点であった。
姜維の異なる点――中でも最も大きな違いは、“親交を深めている人間が多い”という事である。
過去の生の記憶を辿れば、彼は優秀ではあるが頭がやや固く、友人はあまり居ない印象であった。故に亡命直後、関索と義兄弟であると聞かされた際に、酷く驚いてしまったのだ。
「ありがとうございます。まさか、お手合せいただけるとは」
「いえ……お誘いいただいていたのに、長らくお断りしていましたから」
その姜維がわざわざ夏侯覇の部屋まで訪れ、自ら手合せの誘いをかけてきたのは、つい半刻程前の話である。あれ程何度も断っていた手合せを、何故今更しようと思ったのか。普通なら文句のひとつも投げかけるところだろうが、流石に夏侯覇もそこまで子供の感性はしていない。鍛錬場に着くまでの間、年に数える程もない彼の手合せ相手に選ばれた事に、寧ろ胸を躍らせていた程である。
しかし一点、不満よりも不安があった。費禕の命で、無理やり手合せをしようとしているのではないか、という不安である。だが、費禕についてそれとなく問いかけてみたものの、姜維は何も知らないと言わんばかりに目を丸くして見せ、逆に首を傾げるのであった。
「文偉殿ですか? 特に、何も言われておりませんよ……?」
その反応に、夏侯覇は思わず胸を撫で下ろした。先日の晩酌で漏らした愚痴を姜維本人に伝えられていないか、気が気ではなかったのだ。
「……私が手合せをしないのは、加減が利かないからなのです。決して、誘ってくださる相手を好んでいない、という訳ではないので……その」
「なるほど、嫌われてはいないと思って良いんですね」
「はい……」
姜維の話によれば、蜀に降ったばかりの頃、手合せで加減が利かず関索に怪我をさせてしまった事があるのだという。それが尾を引いて、現在まで手合せを滅多にしないほど気に病むようになってしまったらしい。
なお、それ以降も関索は姜維との手合せを全く恐れておらず、寧ろ加減が利かない程強い姜維を興奮気味に褒め称えていたというのだから、実に彼らしいと言えよう。その頃から既に、今の義兄馬鹿の片鱗が見えていたことは、果たして姜維にとって良いことだったのか。それは夏侯覇が判断することではないだろう。
だが、あれほど義弟を甘やかす関索でも解消できないほど頑なに手合せを拒む姜維の性格は、やはり根本的に頑固なのだろうという事は分かる。
「その言葉で十分満足しました。では、宜しくお願いします」
「……ええ。どうか、お怪我をなさらぬよう」
訓練用の剣を片手に二人は向かい合うと、合図もなく打ち合いを始めたのだった。
「うわ……! 伯約の手合せなんて、二年ぶりぐらいに見た……!」
右往左往する文官達による慌ただしい朝を過ぎ、昼前ともなると将軍府内は少し落ち着きを取り戻す。そんな敷地内の鍛錬場には、将兵による人だかりが出来つつあった。それを廊下から発見した梁緒は鍛錬場の中心で剣を打ち合う人物の姿を確認すると、思わず声を上げてしまう。
「なんだって……? 何かの見間違いじゃ――」
「ほら、伯約っすよ!」
「……本当だ」
竹簡を抱えていた尹賞は始め梁緒の言葉を疑ったが、実際に姜維の姿を目にすると目を見開き言葉を失う。
訓練用の剣を片手に、鈍い音を響かせながら己より身の丈の高い男と真剣に打ち合うその姿は、間違いなく二人の友人の姜維であったのだ。
「あれ、夏侯将軍っすよね? どうやって口説いたんだか……」
天水時代からの友人である二人でさえ、蜀に降ってからは数える程も姜維と手合せをしていない。そんな姜維が本気で加減なく振り下ろす剣を、夏侯覇は難なく受け止め斬り返していた。しかし、訓練用の剣を使用しているとはいえ、互いに傷はない。これは本当に稀な事である。
姜維と対等に渡り合えるほどの武勇を持つ将は、蜀にも殆どいない。敢えて名を挙げるとするなら、関索、張苞、馬岱、王平、張翼程度だろうか。それ以外の将では、いくら手合せであろうとも散々に打ち負かされてしまうのだ。そしてその五人でさえ、姜維が渋るため手合せすることはほぼない。故に、この光景は非常に稀有なものなのだ。
「口説きはともかく……あれほどの武勇があれば、伯約も安心して手合せできるだろうな」
「あー……俺らじゃもう相手できないっすもんねぇ……」
「初めから敵わなかっただろうに」
夏侯覇は「戦場で、姜維に勝てたことがない」と漏らしていたが、手合せで対等に渡り合っているところを見れば、件の戦から武芸を磨いてきた事は一目で分かる。必死になるどころか、どこか楽しそうにも見える表情だな。と、尹賞は激しくぶつかり合う音を聞きながら、二人の手合せを眺めていた。
「ま、伯約に友好的な人間が増えるのは良いことすかね」
「そうだな。随分と、過ごしやすくなっただろう」
切れ味の問題もあり、戦での剣の扱いは鈍器のそれとあまり変わらない。そのため姜維は、どちらかと言えば、短い槍の様な感覚で振るっているのだろう。斬りの動作よりも突きや払いの動作の方が多く、狙う所は頭や腕よりも胴である。
一方、夏侯覇はその長身から繰り出される振り下ろしの威力を頼りにしているのか、突きよりも斬りを多用しているようだ。そしてその攻撃の多くは、腕や肩首を狙っている。
そんな攻撃方法の異なる二人が、対等にやりあっているのだ。見ていて勉強にはなるだろうが、果たして参考にはなるのだろうか。人の山を作っている将兵達はみな固唾を飲んで見守っているものの、もはやその目的は参考ではなく観賞の類いに違いないだろう。“姜維の貴重な手合せ”という理由も、少なからず観賞に拍車をかけているのは否定できない。
「それが同郷の人間じゃなきゃ、尚良かったんでしょうけどね」
「……費将軍や関兄弟、張兄弟等は親しいだろう」
「あとは、伯苗殿? でもそれぐらいっすよ? 後はみんな、俺ら含めて他国からの亡命者や投降者じゃないすか」
姜維と夏侯覇が手合せをするほど親しくなっている事には喜ぶ梁緒だったが、一方で二人の手合せが見世物の様になっている現状が不満なのか、眉を顰めて見せる。
尹賞も梁緒も、姜維が出世していく事に関して不満はない。が、元魏将である姜維が出世することで、荊州・益州出身者のやっかみに遭う事を恐れていた。だからこそ、今回のように手合せ程度で人だかりが出来るほど目立ってしまう状況も、二人にとってはあまり喜ばしいものではないのだ。
勿論、それを姜維に伝えたことはないのだが。
「…………過保護だな」
「それ、洪亮殿が言えることっすか?」
廊下まで届く二人の声と武器のぶつかり合う音を聞きながら、少しの間、梁緒と尹賞は複雑な心境を誤魔化すように軽口を言い合い、目的地である費禕の執務室へと歩みを進めるのであった。




