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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
五章
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五章 八

 費禕は普段から晩酌に誰かを誘うことが多いが、ここ数日は夏侯覇が誘われることが多かった。多いと言うよりは、“毎日のように”と言った方が正しいだろう。なにせ、姜維の母の隠れ家から戻ってきた晩から、毎晩なのだ。

 流石に鈍い夏侯覇も毎晩誘われる事は妙に思ってはいたが、亡命直後の漢中での滞在の際も同じように晩酌や遊びに来られていたため、費禕は元々そういう人物なのだろうと思い込んでいた。


「――そういえば、伯約と手合せはできたのか?」


 毎晩飲んでいるにもかかわらず喋り足りないのか、費禕は近況や顔見知り達の話だけでは飽き足らず、何かと夏侯覇自身について質問することが多い。そして確かに夏侯覇は、「姜維と手合せをしてもらえない」とぼやいたことがあった。費禕はそれを覚えていたのだろう。

 しかし、晩酌を楽しむだけにしては物々しい、費禕の探る様な視線が、夏侯覇は少々苦手であった。


「いえ、なかなか機会には恵まれませんね」

「意外だな。まあ、時間もなかったか」

「そろそろ一度ぐらいは、頼みたいところですが……」

「あいつは、そこだけはつれないからなぁ」


 姜維が誰かと手合せをすることなど、年に数える程もない――それは以前から聞いていた話であり、実際に夏侯覇が姜維の鍛錬や誰かとの手合せを見たことがないという現状が、その事実を物語っている。

 確かに夏侯覇自身、成都から漢中への異動や呉との会談など用事が立て込む事もあったが、その全てにおいて姜維と同行しており、当然互いに休みもあった。のだが、いくら声を掛けても、姜維は首を縦には振ってくれないのである。

 夏侯覇としては、ここまで来るとつれないという域を超えている気もするのだが、それにしても鍛錬の姿すら見ないというのは武人としては異常な為、何か理由があるのではないかと常日頃疑問を抱いていたのであった。


「未だに、鍛錬をしている姿を見たことがないんですよ。一体どこでされているんでしょう?」

「……夜だな。夜の鍛錬場になら、よくいるぞ」


 そんな夏侯覇の疑問は、費禕によって容易く解消されてしまう。鍛錬のみに限れば、姜維は夜間に一人で行っているのだというのだ。何故人目を逃れるように行っているのかまでは費禕も知らないようだが、夜にならその姿を見ることが出来るらしい。

 半年ほど蜀にいて漸く掴んだその情報に、夏侯覇は目を輝かせた。


「あ、ならもしかして今も……!」

「いや、今日は仕込みがあるとか言って、調理場に引き籠っていたぞ」

「仕込み?」


 費禕は酒を流し込みながら調理場の方向を指差し、僅かに苦笑を見せた。

 “調理場での仕込み”と聞けば、当然料理の仕込みであるとすぐに思い至るが、いかんせん料理と姜維が結びつかない。急ごしらえの拠点でもあるまいし、兵の間で食事当番を回しているわけでもない。それなのに、何故姜維がわざわざ料理の仕込みを、と夏侯覇が疑問をそのまま口に出せば、費禕は笑って「あいつの趣味さ」とだけ答えたのだった。


「そんなことより、ここまでやってきてどうだ? 伯約の副将として、今後もやっていけそうか?」

「……あ、はい。それは勿論」


 あまりにもわざとらしい話題の逸らし方に一瞬閉口した夏侯覇であったが、費禕の態度が変わらず飄々としていたため言及を避けた。余裕のある頭の良い人間に突っ込んで良い事などそうそうないと、理解していたのだ。

 そもそも、姜維の副将として生活するにあたって、特に不満も不便も不自由もしていない夏侯覇は、頷く以外の選択肢を持ち合わせていない。この異常な人事を命じた張本人に投げる文句もなく、素直に首を縦に振るのであった。


「この人事には、二人とも驚いていたらしいな」

「はは……それはそうでしょう。同じ二品(にほん)の将軍に上下関係を付けたんですから、私は勿論、伯約殿など深夜に慌てて私の邸までいらっしゃいましたよ」

「ほう、あいつがそこまで……なかなか貴重なものを見れたな、仲権殿」


 今でも明瞭に記憶に残る程、あの時の姜維は珍しい反応をしていた。狼狽えるあまり、普段絶対に衣服を乱さない姜維が、平服を乱していた事にも気付かないほどであったのだ。彼にしては珍しい反応であったらしく、その様子を伝えれば費禕も興味深いとばかりに頷くのだった。

 といっても、夏侯覇も書状を見せられた直後には異常な人事に狼狽してしまい、姜維の事をとやかく言えるほど落ち着いてはいなかったため、あまり笑い話にもできないのではあるが。


「そうでしょうね……あのように狼狽える彼の姿など、五丈原でしか見たことがありません」


 何年も前の話である。諸葛亮の行った最後の北伐の舞台となったのが、五丈原の地であった。そしてそこでは、夏侯覇と姜維は敵として相対している。


「五丈原?」

「ええ、彼との一騎討ちに敗れ、もう駄目だ――と思った時にそちらの伝令が現れまして。止めも刺さずに慌てて引き返していったので、よく覚えています」


 そこでも、夏侯覇は姜維に敵わなかった。蜀に降って間もないながらも既に将軍まで上り詰めていた姜維は、その頃から無類の強さを誇っていた。ただ、当時は蜀漢を代表する猛将の魏延(ぎえん)が健在であったため武勇の面だけで言えば少々霞んではいたが、それでもその見た目と武勇と知略が合わさり強烈な印象を残す人間だった事には違いない。


「……ああ、諸葛丞相が危篤の時のことか」

「あ、その時だったんですか」

「色々と事情があって、将軍級は呼び戻されていたからな」


 五丈原での戦の際、諸葛亮は陣中で没していた。遺言は残されており予め細かな人事も取り決められてはいたが、少しばかり問題が発生したらしく、重要な立場の者は彼の危篤時に皆本陣に集められた。それがまさに、夏侯覇と姜維の一騎討ちの頃と一致したというのだ。

 当時の姜維の様子からも分かったが、呼び戻される事は全く想定していなかったのだろう。決めていた覚悟が揺らいだかのように、大いに狼狽えていたのだから。


「そうでしたか。道理で、驚くほど狼狽えていたと思いましたよ」

「何があっても顔に出すな、とあれほど言っておいたんだが……まあ、無理か」


 乱暴に頭を掻きながら溜息を漏らす費禕の姿も、狼狽える姜維程とは言わないがなかなかに珍しいものである。それだけ費禕も、諸葛亮の一件には何かしら思うところがあったのだろう。ほぼ一人で国を支えていた大黒柱を失ったのだから、その死に際の悶着で諸将が動揺するのも当然と言えば当然だが、それだけにしては費禕の様子も妙ではあった。


「ええ。伯約殿はその辺り素直ですから、余程非情に徹しない限りは難しいでしょうね……まあ、そこが長所でもあるんですが」

「お、そこに気付いたか。流石は副将だな」

「その為に就けたんでしょう、費将軍」


 「さて、どうかな」などとはぐらかす費禕に思わず苦笑を向けながら、夏侯覇は杯に残っていた酒をちびちびと流し込む。

 相変わらず何を考えて、何を目指しているのかはよく分からない宰相だが、姜維を気にかけている事だけは間違いない。姜維の下に夏侯覇を就けるという異常な人事は勿論、呉との会談に姜維を向かわせたのも同じような意図があるのかもしれない。具体的にどうこうという事までは分からないが、夏侯覇は改めて肩を竦める。


「はは……これは、伯約殿も転がされますね」

「可愛げがあるだろう?」

「……どちらがですか?」


 その日を境に、費禕の晩酌に誘われる頻度が減ったのは、良かったのか悪かったのか。その辺りの判断は夏侯覇には出来かねたが、晩酌の際に費禕からの探る様な視線に晒されなくなった事には心底安堵したのだった。

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