五章 七
妙な記憶の正体も判明しすっかり気が晴れた夏侯覇の元へ、ある日の昼過ぎ、一通の文が届けられた。
差出人の名は無く、しかし遠くから苦労しながら届けられたような皺が目立つため、魏からの引き抜きや亡命したことへの脅しなどでないか、と戦々恐々としながらその文を開いた夏侯覇は、思わず情けない声を上げてしまった。
「なんとぉ……!?」
「……仲権殿? いかがなさいました?」
宿舎で夏侯覇に割り当てられた部屋の隣は、姜維の部屋になっていた。普段互いに生活音など殆ど出さないため、この情けない声は余計目立ってしまったのだろう。珍しく自室に居たらしい姜維は、怪訝そうな声を上げ扉越しに夏侯覇の様子を窺ってきたのだった。
「あ、お騒がせしてすみません……! 故郷より、文が届きまして……」
「故郷……? 一体誰から――」
「弟の威です」
夏侯威とは、夏侯淵の四男であり夏侯覇の弟である。夏侯覇が蜀へ亡命する際、弟達は全て魏に残った。それは魏への忠義からという理由もあるが、亡命する必要がなかったという事実の方が大きい。
しかし、それを知らない姜維は夏侯覇の身内が無事であることに驚き、目を瞬かせるのだった。
「…………貴方が亡命したのに、ご家族は無事だったのですか……?」
「あはは……元より弟達は親司馬派なので、特に処分がなかったようなんです」
「……では、貴方は」
「あ、私は無理ですよ? 私と処断された泰初は親曹派でしたし、昭伯殿と友人でしたし、八方塞がりです。逃げるか死ぬか、の二択しかありません」
“親曹派”、“親司馬派”という呼称自体は、便宜上のものでしかない。姜維に説明するにあたり、分かりやすいように夏侯覇が付けただけのものである。実際にそういった明確な派閥があったわけではないのだが、それでも魏の内部はそのふたつの勢力に二分されていた。
夏侯兄弟内にて、“親曹派”に区分され曹爽らと親睦を深めていたのは、夏侯覇ひとりであった。別に夏侯兄弟の仲が不仲というわけではなく、交友関係の都合上、偶然そうなってしまっただけなのだ。そして、司馬氏の謀反の一件により淘汰されたのが、まさにその“親曹派”に分類される人物たちであった。
「そ、そうですか……よかっ……いや、良くないですね。全く良くないです」
「はは、そう気に病まずに。弟からも、簡単な言葉しか貰ってませんから」
――自分達は大丈夫だから気にするな。戦場で会わない事を祈っている。
苦労して届けられたであろう文の最後はそんな簡単な言葉で締めくくられており、そもそも本文も、その苦労に見合った内容とは言い難い。それでも弟は恨み言のひとつも書かず、己の身を案じてくれていたのだ。返事のひとつでも返したいところではあるが、それは弟たちの立場を脅かすものにしかならないだろう。
これは己の心の中に留めておくだけにしようと、夏侯覇はその文を備え付けの棚へ仕舞い込んだ。
「……私に教えてしまって、良かったのですか?」
「私も、貴方の隠し事を色々と知ってしまいましたし、お互い様ですよ」
「それはそうでしょうが……」
姜維はどこか納得いかない様子で唇を尖らせていたが、夏侯覇のこの文よりも姜維の抱えている隠し事の方が、余程危ういものである。等価交換と言うにはあまりに見合っていない対価だろう、と宥めたのだが、それでも姜維は釈然としない様子で眉を顰めていた。
節制を好むこの男は、人の秘密を握るという行為自体を好んでいないのだろう。落ち着かない様子で指先を動かしている姜維の姿は、笑ってはいけないだろうが少々面白いものでもあった。
「貴方が気にしてどうするんです。これは私の問題なんですから、そんな顔をしないでください」
「……すみません」
諦めた様に肩を落とし委縮する姜維を見下ろして、逆に夏侯覇は肩を竦めていた。律儀というのか、頭が固いというのか。いつかの記憶に比べればそれも随分と和らいではいるようだが、相変わらず妙なところで融通が利かない性格のようだ。
こんな性格だから、費禕や関索にある意味可愛がられてしまうのだろうが、夏侯覇はそれを指摘するつもりはなかった。既に夏侯覇も、費禕らの側に立ちつつあったからだ。
「律儀なんですね。これをだしに、私を好きなように扱う事も出来るでしょうに」
「な……!? そ、そんなことはしません!」
「…………はは、冗談ですよ。伯約殿がそんな薄汚れた考えの持ち主とは、思いたくないですし」
何か言い返したいのだろうが、言葉を詰まらせてしまった姜維は不満げに夏侯覇を睨み付けていた。
頭が良いわりにこういう時に咄嗟に言い返せないところが不思議でならないが、費禕にはやり返しているところを見るに、彼の円滑な応答には恐らく慣れが必要なのだろう。もしくは、関索のようにいつまでもやり返せない方が彼の正しい応対なのか。
正しい事は夏侯覇には分からないが、今のところはやり返されない方の人間に分類されているようである。
「存外、優しいですよね。伯約殿は」
耐え切れずに笑いながら口にした夏侯覇の言葉が褒め言葉には聞こえなかったのか、姜維は唸りながら悔しがるのであった。




