五章 六
漸く左慈から解放された夏侯覇は、その数刻後には既に隠れ家から出立していた。
左慈によって夏侯覇がここに導かれたことを知らされた為、状況を理解した姜維の方も既に怒ってはおらず、普段通り夏侯覇に接している。それには、夏侯覇もほっと胸を撫で下ろしていた。
もっとも、“夏侯覇が一度死んでいた人間である”という事実までは、彼には伝えてはいない。これから先、起こるかも分からない未来の話など、彼に伝える必要はないと考えていたのだ。
「あれ。そういえば、この場所……見覚えがあるような……」
漢中の森の中、雑談を交えながら姜維と共に馬を走らせていた夏侯覇は、とある場所に通りかかったところで既視感を抱き馬を止める。つい最近、見たことがある場所のような気がしたのだ。
「……それはそうでしょう。貴方が倒れていたのは、ここからほんの僅かに北に行った場所でしたから」
「なるほど。じゃあ、まさかあの日は――」
「母上に会いに来た帰りに、貴方を見つけたのです」
数歩先に馬を走らせていた姜維も夏侯覇の様子に気付くと、周囲を見渡し合点いったように軽く頷く。
夏侯覇が蜀へ逃れてきた際、辿り着いた場所がこの森の中だったというのだ。あの頃の夏侯覇は満身創痍であり、そこが漢中のどこに位置するかまでは覚えていなかった。とはいえ、すぐに姜維達の野営地に招かれ翌日にはこの場を発っていたため、覚えていないのも無理はなかったのだが。
「そうだったんですね……ということは、維之殿もご一緒に?」
「ええ、兄上は毎回ついてきてくれるので」
姜維の母・陶春蕾が「維之さんのように」と口にしていたことを、確かに夏侯覇も聞いていた。彼女は、姜維と関索が義兄弟であることを知っているのだろう。そしてそれは、咄嗟に彼女の話題に出てくる程、関索が姜維の帰省に同行していたという事実にも繋がる。出来の良い息子を更に褒め湛え、異常なまでに心酔している義兄弟が頻繁に訪れていたのなら、きっと母としても喜ばしい事だろう。
更には、費禕も姜維の母がこの場に隠れ住んでいることを知っているらしい。今回は顔を出せない代わりに、評判の茶を土産に持たせてくれていたのだ。と、嬉しそうに姜維は語るため、その二人は姜維の中でもやはり特別な存在なのだろう。あのあくの強い二人と付き合うにあたり、姜維が嫌がるどころかどこか甘い対応をしているのは、それだけ信頼の置ける存在だからなのだ。
今回の件で、その辺りの人間関係を漸く僅かばかり理解できた夏侯覇は、姜維に信頼されるにはまだまだ努力しなければいけないな、とひとり意気込むのであった。
「今回は何故、維之殿を同行させなかったのですか?」
「兄上には、南の方で別件があったのです。本人は悔しがっていたと聞いています」
「はは……彼らしいですね」
「互いにそれなりの立場なのですから、いい加減いつまでも自由に動けるわけではないのだと、そろそろ気付いていただきたいのですが……」
そういえば、ここ数日将軍府内で関索の姿を見ていなかった事を思い出し、なるほどと夏侯覇は頷く。しかし、任を命じられた際に駄々をこねて暴れる関索が容易に想像できてしまい、思わず苦笑も漏らしてしまった。
あれでも彼は将軍、しかも猛将だ。いくら戦が一人二人の武勇でどうこうなるものではないとはいえ、戦場であれ程頼りになる人物はいないのだから、こうして別行動を取ることもあるだろう。嘆息する姜維は呆れている部分もあるのだろうが、その表情には少しばかり不安も見えた。なんだかんだ言って、彼も義兄の身を案じているのだろう。
「どうでしょう。意外と頑固だと思いますよ、彼」
「……仕事を優先してくれれば、それで良いです」
「うーん……」
それは難しいだろう――と、言いかけた夏侯覇は、口にするのを止めた。流石に、仕官した武人が仕事を優先しないなどありえない事ではあるが、関索が何よりも姜維を優先するのは、最早人が呼吸をするのと同じぐらい当たり前の事のように思えていた。
ある程度の我儘が許される人間というのはどこにでもいるものだが、関索はまさにそれだ。人当たりも良く、性格も良く、顔も良く、そして強い。頭は少々弱いところもあるようだが、それは愛嬌として済まされる程度のものでもある。そんな彼が姜維について少々我儘を言ったところで、「まあ、あいつなら」と許される。それが関索という人間の性質である。
末っ子特有の愛嬌なのだろうか。あれは沢山の兄弟の中の兄として生まれ育った夏侯覇にとっては理解しがたいものではあるのだが、それでも「まあ、彼なら」と許容してしまっているのも事実なため、確実に関索の調子に飲まれている自覚はあった。一人っ子である姜維もあるいは、夏侯覇と同じように飲まれている一人なのかもしれない。
義弟という立場でありながら義兄よりしっかりしている姜維は、義兄の調子に疑問を抱きつつも敵わないのだろう。それが兄という立場として生まれた者の宿命なのかもしれない。
「ですが、彼は良い義兄だと思いますよ」
「……ええ。私には、勿体ないぐらいです」
困ったように微笑みながら頷く姜維の姿は、いつかの記憶の彼によく似ていた。




