一章 二
男は、姓は夏侯、名は覇、字は仲権という。魏創設の立役者である夏侯淵の次男であり、魏では右将軍を務めていた。蜀との戦で父を黄忠に討ち取られ、ほんの一年前までは蜀への復讐に燃えていた男だ。
それが何故、怨敵蜀へ亡命することになってしまったのか。誰もがそう疑問を抱くだろう。魏でも有名な知勇兼備の将・姜維を相手にするとなれば、当然追及は免れない。
「……そうですか、司馬懿が謀反を」
「甥の泰初も処刑され郭淮が台頭した為、身の危険を感じ命からがら逃げて来ました」
司馬懿――曹操の代より魏に遣える政治家であり、二代前の皇帝・曹丕に重用されていた男であった。しかし、幼帝・曹芳の後見人・曹爽との折り合いが悪く、また、数年前に行われた蜀征伐の失敗が発端となり、謀反を起こすという最悪の結果を招いてしまったのだ。
その影響は凄まじく、曹一族、その外戚の夏侯一族の立場を根幹から揺るがされてしまう。結果、曹爽一派は処刑され、夏侯覇の甥である夏侯玄も拘束の後処刑される。曹爽、夏侯玄と親しかった夏侯覇にとっては、悠長に構えていられない一大事となっていたのだ。故に、一念発起。何もかも捨て、立地的に最も逃げ込みやすい蜀へ逃げてきた。という訳である。
とはいえ、ここに至るまでも平坦な道のりではなく、真っ先に亡命に気付いた郭淮は夏侯覇をしつこく追い回した。元々、司馬懿と曹爽など比較にならない程に折り合いの悪く、犬猿の仲と言っても過言ではない二人である。嫌う相手が敵に回るとなれば、これ幸いと殺しにかかるのは乱世の常だろう。そんな郭淮のあまりの猛攻によって蜀へ辿り着くまでに討ち取られかねない場面もあったにもかかわらず、夏侯覇が五体満足でここまで逃げ遂せることが出来たのは幸運と言う他ない。代わりに、それなりに大事に扱っていた鎧や、愛馬は駄目になってしまったのだが、必要経費だとして割り切るしかなかった。
「なるほど、その有様は郭淮の仕業であると……分かりました。諜者の情報と照らし合わせ、先ずは私が将軍に話をつけましょう。貴方には、大将軍の元まで同行してもらいます」
「は、はい……! ありがとうございます……!」
なんという僥倖だ。夏侯覇はそう口に出しかけながらもぐっと抑え、代わりに頭を下げた。蜀に亡命したところで、何をどうするかまでは頭が回らなかった男である。豪族の集まりの呉よりは希望がある――程度の認識で逃げてきた為、最悪敵として討たれることぐらいは念頭に入れていたが、首が繋がるのであれば何としてもそれに縋ろうとするのは至極当然だろう。
とはいえ、まさか助け船を出してくれたのが敵として殺し合った事のある姜維になるとは夢にも思わなかったのだが、結果としてそれは良い方向に転がるのである。
そんな夏侯覇の腹が盛大に悲鳴を上げたのは、間もなくであった。
「……その……傷の治療と、食事も用意しますね」
「す、すみません……助かります……」
思い返せば、苛烈極まる逃避行により、夏侯覇は丸五日程まともに食事を取れていなかったのである。安堵から身体が本来の機能を果たしたのは良い事ではあるが、いかんせん状況が状況な為素直に喜べないのもまた事実。緊張の糸が解け苦笑を漏らす姜維に釣られ、夏侯覇も恥から苦笑を見せたのだった。
その直後、二人の居る方向へ向かってくる足音が届く。半ば反射的に構えた二人であったが、足音の主が声を上げると、知り合いだったのか姜維はすぐに肩の力を抜いて見せた。
「伯約! よかった、此処にいたんだ!」
「兄上……!」
姜維に兄と呼ばれたその人物は、背中程まである長い茶髪を揺らし、酷く慌てた様子で二人の元に駆け寄ってくる。男の容姿は、性別を疑いたくなる程中性的な姜維とは異なり明確に男の作りをしていたが、どこか甘さを残す可愛らしいとも言えなくはない美形であった。
彼は夏侯覇の隣で膝を折っていた姜維の隣まで辿り着くと、鼻先が当たりかねない程の至近距離で姜維に詰め寄る。異常な程に相手との距離の近い人間であったが、慣れているのか姜維が動揺する様子はない。
「すみません。実は、亡命者を発見しまして」
「亡命者? ここなら魏から、かな?」
「ええ。文偉殿に、指示を仰ごうかと」
存在に全く気付いていなかったのか、座り込んでいた夏侯覇を視界に入れた途端、その男は姜維から顔を離すと夏侯覇の顔を注視する。そして数秒眺めた後に納得したように何度か頷くと、それまでの間が抜けていると言っても過言ではない程柔らかい雰囲気から一変し、表情を強張らせたのだ。
警戒を露わにせず冷静に夏侯覇の話を聞いていた姜維と比べると、男の反応は血の気の多いものに思えたが、ここは姜維の反応の方が冷静過ぎるのだろう。司馬懿が戦に出ていた頃、彼の元で武器を振るうことが多かった夏侯覇としては、司馬懿と同じく冷静な姜維の反応の方が見慣れたものだっただけであった。
「――なるほど。確かに……うん、見覚えのある方だしね」
自分を見知っている、という事は、この男も確実に蜀の将なのだろう。しかし残念なことに、夏侯覇には全く見覚えのない人物であった。恐らく、直接対峙したことはないのだろう。
そもそも、魏の忠臣である夏侯一族は良くも悪くも目立ち易く、また敵にも味方にも広く顔を知られている為、男が一方的に夏侯覇を知っていたとしても何も不思議はないのだ。
「そうだ、兄上。この辺りで、馬の調達は可能でしょうか?」
「うん。この辺りには僕の知り合いがいるから、頼んで来るよ。夕までには済ませるから、野営地で待っていて」
「ありがとうございます、お願いします」
「うん。くれぐれも気を付けてね、伯約」
あくまで警戒を解かぬまま、男はその場を去っていく。その背を眺めながら、夏侯覇は緊張を解き大きく息を吐いた。何も後ろめたいことはないのだが、露骨に警戒されると息が詰まって仕方ない。戦場とは異なる緊張感と居心地の悪さで、知らず知らずの内に体を強張らせてしまっていたようだった。
「今の方は……」
「関維之殿、かの軍神・関雲長様の御子息です」
「なんと……」
関索、字は維之。関羽の三男であり、蜀と南中部族の講和に一役買ったと言われている猛将である。そう、彼は猛将なのである。
彼の父関羽は義に厚く、それでいて軍神と呼ばれ魏でも恐れられた程の猛将であり、蜀帝・劉備の義弟であった。
彼自身の最期は悲劇に塗れており、その死に関わっていたとはいえ、実際に彼の首を届けられた際は曹操も気落ちしていた程だ。夏侯覇自身は関一族の全てと邂逅したことはなかったが、魏の古参の諸将の様子から、その影響力の程は痛い程感じていた。
それほど、敵にも味方にも大きな影響力を与えた人物であり、そして猛将と呼ばれるに値するほど大柄で、その上美しい髭の持ち主でもあったというともなれば、大よその外見の予想もつくというものだ。夏侯覇の経験上、猛将然としている人物達は往々にしてそれなりの外見をしており、関羽の息子ともなれば当然猛々しい男を想像していたのだが、どうやら関索はその例に漏れるらしい。
空腹と疲労で朦朧としかける思考でそこまで考え、納得には時間がかかりそうだ、と夏侯覇は軽く頭を抱えた。
「では、兄とは?」
「私達は、義兄弟なのです」
そして、もう一つの疑問は更なる衝撃をもたらした。
先帝の義弟関羽の息子である関索と、元魏将の姜維が義兄弟などと、そんなことがあるものか。そもそもこの時期、姜維の義兄弟になり得るほど親密な人間などいない筈。
そう頭に浮かんだところで、夏侯覇はふと思いとどまった。何故、姜維や蜀の内情を知っている前提でそんな考えが浮かぶのか。自分と彼は、戦場以外で会ったことはなかった筈ではないか。疑問ばかりが浮かび、夏侯覇自身分からなくなったのだ。
結局、己が振った話題にもかかわらず、ぎこちなく相槌を打つのが精いっぱいとなってしまった。
「さて、先ずは野営地に行きましょう。歩けますか?」
「はい、辛うじて」
「無理はなさらずに。肩をお貸しします」
「すみません……」
姜維自身はそんな夏侯覇の反応を気にする様子もなく立ち上がると、夏侯覇に向けて手を差し伸べる。その手を掴み、力の入り辛い両脚で何とか立ち上がるものの、一度倒れてしまったせいか、それとも一度立ち止まってしまったせいか。自力で歩こうとしても足元が覚束ない。その危なっかしい様子を見かねた姜維は、夏侯覇の腕を己の肩に回し肩を貸しながら目的地へ歩き始めたのだった。