五章 五
左慈の隠れ家では、春蕾作の昼食を食べながら左慈の方術についてくどくどと講釈を受けていた夏侯覇であったが、食後の茶を飲み干した左慈に再び首根っこを掴まれ、その場に立たされる。
完全に、飼い犬か何かの様に扱われていることに抗議したい夏侯覇ではあったが、抗議や抵抗をする前に隣室へと押し込まれたのだった。
「伯約よ。この者、少し借りるぞ」
「はい、どうぞ」
姜維も止める様子はなく母との話に夢中になっているものだから、この場に夏侯覇の味方はいないようなものである。わざわざ姜母子の邪魔をするつもりはないが、自業自得とはいえ夏侯覇は少しばかり心細い思いをしていた。
そんな意気消沈する夏侯覇を墨の匂いの漂う隣室に連れ込んだ左慈は、その場に夏侯覇を座らせると向かい合うように床に腰を下ろし、鋭い視線を浴びせる。その変化を瞬時に感じ取った夏侯覇もまた、僅かに身構えた。
「――さて、其の方には話があってな」
「話……ですか?」
左慈と夏侯覇に接点などない。故に、個人的に話すような事もない筈なのだが、その目は寧ろ話さなければいけない――とでも言いたげに、何かを訴えかけていた。
しかし、夏侯覇の方には一切の心当たりがない。故に、首を傾げるばかりであった。
「…………其の方、よもや死人ではあるまいな?」
普段の夏侯覇であれば、冗談として切り捨てたかもしれない。なんて笑えない冗談だ、と。しかし、今回は相手が悪かった。相手は方士の左慈。既に彼の行う奇跡や奇術、奇行を散々に聞かされており、並の人間ではないと分かり切っている相手なのだ。
そんな左慈が、一切の余裕もなく真剣な眼差しで刺すように夏侯覇を見つめながら、そう問いかけてきたのだ。夏侯覇は思わず、言葉を詰まらせてしまった。
「其の方に、生者のものではない力が纏わりついている。しかし……その因果は過去からのものであり、未来からのものでもある……のか」
「…………ど、どういうことでしょう?」
「……ふむ……分からぬな。かの者は、余程強い未練を持っていたと見える」
じろじろと己を眺め、ひとりで勝手に話を進める左慈について行けず夏侯覇は首を捻っていたが、そんな中ひとつだけは理解出来たような気がしていた。
夏侯覇の存在が、方士の彼にとっては信じ難い程に異常なものなのだろう――と。
「私の未練、ですか……?」
「いや、其の方の未練ではない。其の方を失った者の、強い未練だ」
「私を失った者……? しかし、それではまるで――」
その先を言葉にしようとして、夏侯覇は口を噤んだ。左慈が言いたい事。それらしき記憶に心当たりはあったが、認めるのが怖かったのだ。
夏侯覇以外の何者かが、夏侯覇を失った事に対し強い未練を抱いた為に、今の状況が発生しているのだと左慈は語る。その未練を持つ者が何者なのかは、この際どうでもいいと夏侯覇は思っていた。
問題なのはそれ以前の話なのだ。
「ああ。其の方は、一度死んでおる」
首を縦に振った左慈は、そう静かに返す。
夏侯覇は、ぞくぞくと背筋を嫌なものが伝うのを感じていた。少しだけ。そう、ほんの少しだけ、もしかしたらと予想していた事が、まさか事実だなどと思いたくなかったのだ。そんな事実を、何の根拠もなく受け入れるわけには、いかなかったのだ。
何故ならば、死んだ筈の己がこの世に存在している事など、ありえないのだから。
「だがな……また、同じ生を歩んでいるのだ」
「同じ生……?」
「いや、正確には……同じようで、僅かに異なる生…………であろうな」
口元を抑えじっくりと推敲しながら、現実のものではない何かを眺めるように夏侯覇のその先を見つめ、左慈は語る。それは、方士である左慈の知識や力をもってしても明確には分かりかねるものらしい。
だが、簡潔に纏めれば、夏侯覇は以前に生を受けた際も、“夏侯覇として”生まれ、“夏侯覇として”生き、“夏侯覇として”死んだのだという。
「其の方、一度目の生ではないぞ」
当然、そういう結論に至るだろう。
今の夏侯覇としての人生は二度目のものだからこそ、時折既視感を覚えた。以前の人生と異なる部分には、違和感を覚えた。
つまりは、そういうことだったのだ。
「身に覚えがあるのではないか?」
「……無数の矢に射抜かれた記憶……それは、私が……?」
以前張苞に確認した、“姜維を庇い矢に射抜かれて死んだ将”の存在。それは妄想や記憶違いなどではなく、間違いなく夏侯覇自身の身に起きた事柄なのではないだろうか――
夏侯覇は、己の両手が震えている事に気付いた。恐怖だったのだろうか。それとも、受け止めきれない現実に驚愕しているのだろうか。自分自身でも分からないその体の変化を、ただ茫然と見つめていた夏侯覇の様子に左慈は幾分か態度を和らげ、まるで彼を安心させるかのように落ち着いた声で語り掛けながら膝を崩した。
「ふむ……やはり自覚があるか。どれ、少し整理してみよう」
そう優しく促され、夏侯覇はこれまでの人生に、一度たりとも誰にも語らなかった奇妙な記憶を、生まれて初めて口にした。
――夏侯仲権として、魏で生まれ育ったこと。
――父を定軍山で亡くしたこと。
――司馬師の謀反により、蜀に亡命したこと。
――蜀では厚遇され、姜維の参謀として彼が頻繁に行う北伐に出ていたこと。
――とある北伐の際、矢から誰かを庇い射抜かれ、そこで記憶が途切れていること。
口にしてみると、本当に途中までは今の人生と全く同じであった。しかしある所から、違うのだ。これから同じ道筋を歩むのかもしれないが、現時点ではその可能性は低い。
「……夢だと、思っていたんです」
「それもまた、誤りではあるまい。今の其の方にとっては、既に泡と散った夢物語よ」
既に終わった事――確かに、そうなのかもしれない。と、夏侯覇は頷いた。
とはいえ、一から十まで全てを終わった事として片付けることは出来ないだろう。差異も多いが、現在の生と一致している点が多過ぎるのだから、いつ前世のような事柄が起こってもおかしくはない。今の生の一番の大きな違い、“北伐”がいつ始まるか。それ次第では、全く同じ人生に戻る可能性も零ではないだろう。
武人など常に死の淵に立っているような存在であるため、死ぬことを恐れているわけではないが、全く同じ人生を歩むのもなんだか癪なのである。
「しかし……其の方の以前の生とは、時の流れが違うようだな」
「……それはつまり、私が以前より若い……ということですか?」
「ああ。全ての出来事が、以前よりも十数年ずつ早く進んでいるのではないか?」
それは、左慈に言葉にされて初めて気付いた事であった。
確かに夏侯覇の記憶では、夏侯覇が蜀に亡命した時点で既に中年期を越えていた。少なくとも夏侯覇自身は、老人に近い年齢であった上、姜維も中年期には差し掛かっていたのだ。
それが、今はどうだろう。夏侯覇の今現在の年齢は二十九、姜維は二十三である。とても、以前と同じ時の流れで物事が進んでいるとは考えにくい。だからこそ、今の今まで前世の記憶が前世の記憶とは思えなかったのだろう。
「確かに、皆若かったです。少なくとも、三十歳程度は」
「ふむ……妙ではあるが、そんなこともあるのやもしれぬな」
同じ人生を歩んでいるという異常過ぎる事実がある以上、その時の流れの違いなど些事なのだろう。気にはなるが、気にする必要性があるかと問われれば、夏侯覇も今更その程度、と己も答えるだろうと考えていた。
「――実はな、其の方を此処に呼び寄せたのは我なのだよ。ここ数日、妙に伯約の動向が気になったであろう?」
「そういえば…………あ! では、私は怒られ損では……!?」
「ははは。それは、我の方から釈明しておく。其の方らの関係に傷は付けまいよ」
「ほ、本当にお願いしますよ……!」
急にそんなことを言い出した左慈に、夏侯覇は思わず声を上げた。
結界を通り抜けられたのは左慈の仕業ではなく、夏侯覇自身が本当に姜維に信頼されていたからではあるらしいが、この一件で姜維に嫌われでもしたら、彼の副将として今後やっていくことが厳しくなるだろう。もしかしたら、前線である漢中すら外されるかもしれない。
それは夏侯覇としては何としても避けたい状況の為、軽く笑う左慈に対し、それはもう真剣に懇願する。
「其の方を強い因果で繋いでいるのは、誰であろうな」
そんな夏侯覇を軽くあしらいながら、夏侯覇自身が気にも留めていない人物に対し、左慈は心当たりでもあるかのように笑い続けていた。




