五章 四
一方その頃、夏侯覇を焚き付けて姜維の後を追わせた費禕は、いつも通り漢中で政務に勤しんでいた。
年齢の割には妙に好奇心が強く、何かと首を突っ込みたがる夏侯覇のことだ。いずれは姜維の隠し事にも気付くだろうと考え、費禕は敢えて彼を止めなかったのだ。
「失礼します。費将軍、お手紙っすよー」
そんなことを思い返しながら、殆どが終わった仕事の竹簡で出来上がった山を眺めつつ残りの仕事の竹簡に筆を走らせていた費禕の元へ、いくつかの竹簡と書簡を持った梁緒が訪れた。
「わざわざすまないな、芳孝。誰からだ?」
「んーっと、呉の陸大都督っす。この間の会談の話っすかね?」
「伯言殿か」
その文には、確かに陸伯言と書かれていた。陸遜が会談後にわざわざ文を出して来るなどそうそうある事ではないが、今回は特例塗れであったため報告や所感もあるのだろう。
梁緒が退室したことを見送ると、費禕は封を切りながら内容の大よその予想を立てつつ、それでも何故か妙な胸騒ぎを覚えていた。
『伯約殿との会談、大変充実したものとなりました。此方の要望通り、彼を派遣していただき感謝致します。そして文偉殿のお話の通り、夏侯将軍は確かに、伯約殿にとっては信頼に足る人物であるのでしょう』
当たり障りのない内容に、費禕はまず胸を撫で下ろす。今回は何故か姜維が指名されたため、それとなく理由をつけて夏侯覇を護衛につけはしたが、どちらも元魏将だ。流石の陸遜も不快感を抱く恐れがあったが、その辺りは問題ないようだ。やはり、姜維が気に入られていたことが大きいのだろう。
『ですが――本当に大丈夫なのでしょうか。あの方は、妙な空気を纏っておりました』
「妙な空気……?」
何の話だ、と費禕は文を片手に首を捻る。夏侯覇は無駄に好奇心が強いとはいえ、現在の蜀の武官の中でも常識人に位置するのだ。時折奇妙な反応を返したり、姜維には気を許しているのかごく稀に彼を揶揄うことがあるが、それでも未だ遠慮しているのか周囲に気を遣っており、基本的には無害な男である。
成都に居た頃、鄧芝に念を押されたため一応は監視をつけていたが、間者の様な不審な動きも見られず母国への未練も感じられない。そんな人物が、どんな空気を纏わせているというのか。と、疑問は膨らむばかりであった。
『このような事を書いておいて申し訳ないのですが、この違和感を言葉に表すのは非常に難しいのです。ただ、彼からはこの世の者ではないような……いえ、この世の者ではないと逆に此方を指摘するかのような、妙な空気を感じました。当然、彼がそう口にしたわけではありませんが、そう思わせる何かは彼にはあるのです』
つまり、陸遜が感じたのは異常な程の悪寒なのだろう。普段の簡潔且つ明快な文面からは考えられないほど、曖昧な言葉で文章が散らかっているところも、彼の動揺を表しているのかもしれない。
しかし、費禕はこれまでにそんな空気を夏侯覇から感じ取ったことはなかった。普段姜維からも“危機感がなさ過ぎる”と散々に指摘されているため、不穏な雰囲気を費禕自身が感じ取ることは難しいのかもしれない。だが、夏侯覇のことを殊更気に掛けている姜維からも、その他の文武官からも、特にそういった報告は受けていない。
『私にはとても色濃く見えるのですが、我が子や伯約殿は特に感じてはいないようです。貴殿がもし彼に何も感じないのであれば、これは私の戯言として、お忘れいただいて構いません』
恐らくそれは、陸遜の言葉通り、彼以外の人間は感じていない違和感なのかもしれない。現に、先述した通り費禕にも全く身に覚えがないのだ。
考え過ぎだ、きっと杞憂だろう――目の前に陸遜が居たなら、費禕はそう答えていたに違いない。
『しかし、貴殿や他のどなたかが、彼に対し何か違和感を抱かれたのなら――』
だが、これは文であり、ただ陸遜の所感が書かれているのみである。この様子では、それなりに憔悴していたに違いない。ならば、返事は早めに返した方がいいだろうと読み続けながら筆を取った費禕は、最後の一文で動きを止めた。
『注意してください。恐らく彼は、只の人ではありません』




