五章 三
「――ところで、他に気になる事があるのではないか?」
涼しい顔で茶を啜っていた左慈は、そう切り出すと夏侯覇に視線を向ける。それは最早、促しているというよりは強制しているようにも感じられたのだが、疑問があるのは確かだ。それも、超特大級の疑問である。
「ええ……まあ……」
「と、いう事だ。露見してしまったのだ、此の者には説明しても良いのではないか?」
おずおずと頷いた夏侯覇の姿を見届け、今度は姜維に視線を向けた左慈は軽く肩を竦めた。
姜維は苦い顔で歯噛みし長らく春蕾と夏侯覇を交互に見つめながら眉を顰めていたが、やがて力なく首を横に振って見せると僅かに睨みを利かせながら夏侯覇に向き直った。
「…………仕方ありませんね。どこが気になりますか?」
「伯約殿の母君の事、ですね」
そのあまりの険相に、これは間違いなく後で猛烈に説教される流れだと夏侯覇は確信していたが、ここまで来てしまったらそんなことを気にしている場合ではない。いっそ聞けるところまで聞いてしまえと、半ばやけくそであったのも事実ではあるが、それを口にすれば当然姜維に怒られるだろう。
いくつかの疑問はあるとはいえ、それらは全て一つの事柄に帰結するだろう。姜維の母・春蕾の存在だ。
「母上は天水の地に住んでいたのですが、蜀に来たいと仰いまして……」
「しかし、あの道をご婦人が通るのは……」
「ええ、危険です。加えて母上は病に冒されていたので、とても現実的ではありません。とはいえ、魏に一人で置くわけにもいかない…………故に、まず医者を探していたのですが……」
正直に答えた夏侯覇から視線を逸らし、姜維は小さく「そうでしょうね」と呟いたものの、意外にもすんなり経緯を語り始めたのだった。
姜維の母は、姜維と共に天水郡の冀県に住んでいた。それは姜維が蜀に降ってからも変わらず、魏側からの圧力をそれとなく受けながらも決して屈さず気丈に構えていたらしい。しかし、彼女には持病があった。心臓が弱かったのである。そんな女性が、蜀への険しい道中を乗り越えられるわけがない。故に姜維は、母の為に自分達の味方になり得る医者を密かに探していたのだという。
その話は、夏侯覇が天水に赴いた際には聞けなかった為、恐らく天水の住民にも悟られないよう、秘密裏に行われていたのだろう。
「その……気が付くと、方士様の世話になっていたのです」
「…………突然、展開が飛びましたね」
「実際、突然でしたから……」
「ふふ。方士様は、病の治療と私の保護を引き受けてくださったのです」
歯切れ悪く答える姜維に代わり春蕾が言うには、ある日急に家に訪れた左慈に凄腕の医者を紹介され治療を受けたと思えば、病状が落ち着くと今度は家財道具の全てを持って漢中まで連れてこられたのだという。しかも、全く険しい道も使わず馬車で安全に移動したというのだから、姜維も開いた口が塞がらなかったらしい。
夏侯覇も、それには全く納得がいかなかった。なにせ、この巴蜀は天険の地。周囲を険しい崖や山々に囲まれており、加えて各地が戦場となっている為、馬車でのんびりと老人と女性が二人きりで安全に通れる道など存在しないのだ。実際、夏侯覇自身も亡命の際悠々とこの地に辿り着けたわけではなく、険しい道のりで足を踏み外しかけたりと何度も死にかけていた。追手に追われていたとはいえ、その道の険しさは何も変わらないだろう。
しかし、この左慈は仮にも方士である。しかも、曹操を奇術で散々に惑わしたり、外敵を拒む結界も貼れるような能力の持ち主だ。それが本当の事かどうかはともかくとして、こうして姜維の母が漢中に無事で生きている以上、これまでの話も全て信じないわけにはいかないのであった。
「魏に楯突く若者の母君が、医者を探していると聞いてな。曹孟徳とやり合った我としては、応援したくもなろう?」
「ああ……それで、この様な山中に結界まで拵えて、お二人で隠居していらっしゃるのですか」
つまり気に入らない曹一族の国とやりあっているから、左慈は姜母子に肩入れした――ということなのだ。仮にも方士がそんな理由で行動してもいいものなのかと呆れたくもなったが、少なくともそのお蔭で姜母子は助かっている。念入りに姜維の母を隠している状況も、方士が関わっているこの事実を悟られないためだったのだろうと思えば、左慈は彼なりに外界への接触には相当に気を遣っているのだろう。それを好奇心で暴いてしまった己の方が、どうかしているのかもしれない。
ここまで知ると流石に、夏侯覇にも罪悪感が芽生えてきたのだった。
「そういう事だ。病の治療ならば、知り合いに宛てもあったしな」
「至れり尽くせりですね……」
「そうでもない、見返りはしっかり要求しているのでな」
「見返り?」
見返りというからには、金銭の要求程度はあってもおかしくはないのだろうだが、今のところ二人が何か重い条件を課せられているようには見えない。そもそも求めるものは金銭ではないのかもしれないが、それにしてもこれまでに聞かされた左慈の対応は破格にも程があるのだから、それなりには何かを返しているだろう。
故に、この母子にはどのような見返りを求められているのか、と夏侯覇はひとり慄いていたのだが、どうにも世捨て人というのは一般的な常識や価値観が通用しないらしい。
「親不孝はするな、とな」
「これはまた……なんとも――」
優しい見返りだなと言いかけたが、この時代、親不孝をせずに生きるのはそう簡単な事ではない。現に夏侯覇は、父の敵である蜀に亡命している有様なのだ。夏侯覇自身後悔はしておらず、また亡き父がどう思うかは分からないが、傍から見ればとても孝行者とは言えないだろう。と、夏侯覇は冷静に己を分析する。
夏侯覇の様子に、左慈もまた何かを察したのだろう。満足げに笑いながら、また一口茶を啜るのだった。




