五章 二
夏侯覇自身、何が起きたのか理解が追いついていなかった。
ただ、休暇の姜維の後をつけて彼の母の隠れ家を見つけてしまっただけだというのに、何故か老人に首根っこを掴まれて姜維とその母に醜態を晒しているのだ。恥よりも情けなさの方が勝り、思わず項垂れてしまった。
「あ、あの……すみません……」
そんな夏侯覇の姿を見て何を思ったのか、姜維は小さく溜息を漏らすと老人へ向き直る。
「……方士様、無礼をお許しください。その方は、私の仲間なのです」
「それは構わんよ。しかし、我が結界に阻まれぬとは、余程信頼しているのだな」
「え……?」
老人は大男を片手で掴み上げていたにもかかわらず一切の疲れを見せず、夏侯覇をその場に下ろすと首を傾げながら姜維と夏侯覇の姿を交互に眺めたのだった。
しかし当然ながら、夏侯覇には何の話をしているのか、皆目見当もつかない。老人は結界などと言っているが、そもそも夏侯覇は結界など見た事もない上、ここに至るまでの道のりにそれらしき怪しいものを見つけた記憶もないのだ。そのため、夏侯覇は老人の妄言かとも考えたのだが、姜維の反応は全く異なっていた。
「…………そのような事が明け透けになってしまうのが、貴方の術の唯一の欠点でしょうか」
「ははは、そう照れるでない。そも、あの結界は其の方が心から信頼している者であり、且つ過去現在未来全てを覗き、其の方に悪意なく、其の方に害を成さない者のみに意味を持たぬ。互いの信頼関係があって漸く、役立たずになる代物なのだぞ」
老人の言葉選びは難解且つ非常に冗長ではあるが、どうやら姜維は夏侯覇を信頼しており、夏侯覇も姜維に害をなさないため結界に阻まれなかった――ということなのだろう。しかし、夏侯覇は一人納得しながらも、そもそもそんな結界が本当にあったのかと未だ疑っていたのだ。
「それは……」
「維。この方は維之さんのように、大事なお友達なんでしょう? 母にも紹介してもらえるかしら」
「……母上が、そう仰るなら……」
言い返す言葉がないのか口篭る姜維を宥めるように、彼の母は自愛に満ちた笑みを浮かべながら、姜維と夏侯覇を眺める。姜維の母にしては想像以上に若い容貌ではあるが、少なくとも中年期半ば程度ではあるのだろう。しかしそれ以上に目を引いたのが、彼女の美しさであった。
なにせ息子の姜維ですら、性別を疑うほどに美しい容姿をしているのだ。その母ならばある程度の美女は想像していたとはいえ、流石に青年期の息子を持つ母にそこまでの若々しさは期待していなかった。
だが、美しい。天女のようなとまでは言わないが、色の白い肌と絹の様な銀髪がまるでこの世のものではないかのような錯覚を抱かせるほど、人の美しさとは思えない。その上、常に慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべているのだ。夏侯覇としては、姜維の母と知らなければ危うく惚れそうになってしまった程には、惹きつけられる女性なのであった。
「さて、此処に座るが良い。茶でも出そう」
「あ……ありがとうございます」
老人は、そんな惚けていた夏侯覇を促し、姜親子の座る卓の前に腰を下ろさせる。だが、夏侯覇の向かいに座る姜維の目は完全に据わっていた。
彼が怒るのも当然だろう。なにせ、休暇の日にわざわざ後をつけ、彼の身内の隠れ家と思わしき場所まで来てしまったのだ。結界の話が本当かどうかは相変わらず疑わしいが、それほどまでに隠し通したい場所だったのなら、彼に何を言われても仕方がない。
「……仲権殿」
「は、はい…………すみません。行き先も告げずに出掛けられたので、どうしても気になって……」
「……文偉殿にでも、焚き付けられたのですか?」
「いえ……費将軍は、いつもの事だから好きにさせておけ、と……」
以前は姜維が親に叱られる子供のように縮こまっていたが、今回は夏侯覇が縮こまる番であった。
怒鳴るならまだしも、姜維は静かに睨みを利かせながら厳しく追求してくるため、これはこれで怖い。更に言えば、目の前で息子に説教されている男が居るにもかかわらず、ほぼ同じような顔をした彼の母がにこにこと笑みを浮かべたままであるという状況も、正直なところ気味が悪いのである。
「なら、完全に貴方の独断ですか……仕方ありませんね……」
大きく溜息をつき何度か軽く首を振ると、姜維は諦めたのか己の母に向き直り姿勢を正した。母思いの孝子らしい、母に対して最大限に礼を尽くした見事な身の変わりようである。
「母上、彼は夏侯仲権殿。以前もお話しましたが、かの夏侯妙才様の御子息であり、現在は私の副将として力を貸してくださっています」
「まあ、夏侯の方でしたの……! お話は、息子より聞かせていただいておりました……息子が大変お世話になっております。私、母の陶春蕾と申します」
春蕾は目を輝かせると、夏侯覇に向けて深々と頭を下げて何度も礼を口にする。
夏侯覇の父・夏侯淵は、魏建国の立役者であり、名高い名将である。魏に住む者で、彼を知らないものなどそうそういるものではないだろう。特に、晩年の夏侯淵が担当していたのは、魏の西方。つまり蜀に対する総大将であり、魏の西方に位置する天水の民にとっては、名の知れた将軍なのだ。
そんな有名人の息子が、己の息子の副将と聞いて驚きもあったのだろうが、それよりも喜びの方が大きいのだろう。夏侯覇の叔母である月姫の反応を思い出しながら、この姜維の母は随分と肝が据わった人間なのだろう――と、夏侯覇は一瞬にして理解した。姜維の肝の座りようも、母譲りなのかもしれない。
「このような挨拶になり、申し訳ありません。夏侯仲権と申します。私こそ、伯約殿には命を救っていただき、その後も世話も焼いていただいております。御子息には、感謝してもしきれません」
母一人、子一人で生きてきたからなのだろう。そう簡単には動揺しない春蕾に感服した夏侯覇は、思わず拱手し深く頭を下げた。夏侯覇なりに、最大限の礼を尽くしたのだ。
「……そして、此方が――」
「左元放、方士だ。今は伯約の母君を匿い暮らしている」
蓋碗を夏侯覇の前に差し出しながら口を開いた老人は、そう名乗り茶請けを出した。方士とは、方術と呼ばれる術を扱う人間であり、早い話が、占星術・医術・錬金術等に通じている知識人でもある。
しかし夏侯覇は、その名をもっと異なる意味合いで、昔耳にしたことがあった。
「……もしや、孟徳伯父上の話の……?」
「ああ、聞いていたか。曹孟徳とは、随分楽しくやり合ったものだ」
伯父上が一方的に怒っていた記憶しかないが。と、言いかけて夏侯覇は思わず口を噤んだ。
――今から三十年程は昔の話だ。当時司空の地位にいた曹操の前に突如現れ、様々な奇術で惑わせ、曹操を激怒させたとんでもない方士が居たのだ。それが、左慈。字は元放。
今、夏侯覇の目の前に座っている老人が、まさにその奇妙な方士その人なのだ。
「しかし、貴方は亡くなったと聞いておりましたが……」
「うむ、死んではおらんのだが……そうだな、その辺りは秘密だ。方士には、方士なりの矜持があってな」
「そ、そうなんですか……」
曹操を怒らせた左慈は、投獄されたが一向に衰弱せず、逆に生き生きとしていたという。その後勝手に脱獄し、またもや奇術で曹操を惑わした為、再び捕らえられ処刑された。と、夏侯覇は聞いていた。
だが、実際には左慈は処刑されても死なず、遺体から煙のようなものが飛び出たかと思えば、それが左慈の形となりそのまま元気に飛び去って行ったのだ。この情報の不整合は、曹操が甥に真実を語らなかったのが原因である。
左慈は既に方士よりも仙道に近いのではないか――と、当時の曹操はぼやいていたのだが、それを漢中で茶を啜っている今の夏侯覇が知ることはないのだった。




