五章 一
その日は、姜維の休暇の日であった。数日前に夏侯覇が聞き耳を立てていた際の情報の通り、姜維本人は一日のみしか休暇を希望しなかったらしいが、そこは費禕の計らいでもう一日程追加されている。
そしてその休暇を何に使うのか――と、姜維の様子をそれとなく探っていた夏侯覇は、軽い荷と剣のみ持ち、馬で街の外に出て行く姜維の姿を目撃したのだった。
「費将軍。伯約殿は、どちらへ行かれたんですか?」
「さて、女性と逢引きかもしれないな。いつものことだから、気にしなくていいぞ」
その様子を費禕に報告し、何か知っているのであれば聞き出そうとしたが、費禕は笑ってそうはぐらかすばかりであったため、未だ休暇中の夏侯覇は密かに後をつけることにしたのだった。
姜維の向かった先に馬を走らせると、街はずれの道端で彼の姿は見つかった。どうやら森の中に用があるらしく、奥へと続く道へ迷いなく入っていくその背を追い、夏侯覇も気付かれないよう距離を取りつつ後をつけた。一本道のため、然程距離が空いたところで振り切られるとは思えなかったからだ。
そうして辿り着いた先は、漢中の森の中。その奥深くに急に現れたのは、木造のこじんまりとした一軒家。費禕は逢引きなどと言っていたが、逢引きの場としてはあまりにも長閑な場所なのであった。
「……ここは」
妙な場所だ――と、言う他ない。家と、井戸、小さな畑のみしかないありきたりな民家であるにもかかわらず、その場所には独特の、まるで宮殿内の様な厳かさや神前の様な神聖さすら感じる異様な雰囲気が立ち込めていたのだ。
そんな民家の傍に馬を繋ぐと、荷を片手に姜維は躊躇なく民家の戸を開き、中へと足を踏み入れる。
「ただいま戻りました!」
「ああ、お帰りなさい……!」
信じがたいことに、中から聞こえてきたのは女性の声であった。
まさか本当に費禕の言う通り、姜維は逢引きに来たのか? 女っ気どころか、義兄のせいで男っ気の方が遥かに多いあの姜維が?――などと、本人に聞かれたら鉄拳制裁は免れないほどの野暮な感想と溢れ出る好奇心を抑えきれず、馬を近くの木に繋ぎ、物音を立てずにそっと民家に近付いた。
「怪我はなかった? 食事はしっかり摂れている?」
「ご覧の通り、今回も五体満足で帰ってこれました。食事も抜かりなく」
「ふふ、安心したわ。あなたは集中すると、寝食を忘れがちだものね」
完全に所帯じみているそのやり取りは、逢引きというよりは家族の様にも思えた。もしや、隠し妻なのかと緊張を堪えながら窓から覗き見ると、そこには姜維と同じ長い美しい銀髪の女性が、姜維と向かい合うように座っていたのだった。
顔がよく見えないため正確には分からないが、その雰囲気からして年齢は姜維より上だろう。
「――お体の加減は、如何なのですか?」
「この通り、すっかり良くなったわ。方士様のお陰ね」
「よかった……」
「私は、維が無事で嬉しいわ。偉くなるのは凄いことだけれど、自分のことも大事にね」
「母上……」
母上。そう、姜維が口にした瞬間、夏侯覇の脳裏にひとつの記憶が蘇った。
姜維が蜀に降って間もなく、彼の母が行方知れずになった――という情報を。以前、夏侯覇が天水に赴き得た姜維に関する情報のひとつが、まさにそれであった。
姜維が蜀に降って数週間後のある日、姜家の邸はたった一晩にして無人になってしまったらしいのだ。人攫いにでも連れていかれてしまったのか、と、近隣の住人は恐怖したらしいが、家財道具も何もかも全て無くなり、人の生活していた痕跡すら消え去っていたのだというから、人攫いよりは神隠しに近いだろう。
その姜維の母が、ここに居る。漢中の森の中の奥深くの民家に、生きて住んでいるのだ。
「母……? 何故、此処に……」
あまりに信じがたい情景に、思わず疑問を口に出してしまっていた。何故魏の天水に居た彼の母が、蜀の漢中に居るのか。どうやって、女性の足でここまで来たというのか。それ以外にも疑問はいくらでも湧いて出るのだが、急に地から足が浮いてしまった為、そんなことを考える余裕もなくなってしまったのだった。
「うわっ! な、えっ……だ、誰だ!?」
「……なんだ……!?」
思わず振り返ると、白髪の小奇麗な老人が己の背後に立っていた。気配も何もなく背後を取られた事にも驚いたが、それよりも問題なのは、今夏侯覇の首根っこを片手で掴み持ち上げているのが、まさにその老人だということなのである。
仮にも夏侯覇は、身の丈八尺程度はある大男である。そんな夏侯覇の首根っこを掴んで持ち上げている老人は何者だ、という疑問と恐怖が当然真っ先に浮かぶわけなのだが、そんな疑問を解消するような暇はなかった。
「伯約、これは知り合いかね?」
「仲権殿……!?」
驚きに声を上げてしまったせいで、隠れていた夏侯覇の存在は姜維やその母にも知れてしまい、夏侯覇は首根っこを掴まれた情けない姿のまま二人の前に差し出されたのだった。




