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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
四章
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四章 六

 それは、成都に滞在していた頃の話である。張苞と手合せをしていた夏侯覇は、どうしても彼に確認を取りたいことがあり、休憩時間に神妙な面持ちのまま彼に詰め寄ったのだ。


「子昴、妙な事を聞くが教えてほしい。伯約殿が蜀に降ってから、矢から彼を庇い亡くなった将はいるかい?」

「……いや。俺の知る限りでは、そんな将も兵もいません。これまでの戦で、伯約が窮地に陥る事はなかったので」


 水を飲んでいた張苞は、何故そんなことを聞くのかと言いたげに眉を寄せながらも、軽く頭を振りその可能性を否定した。

 姜維が蜀に投降して以降、それほど大きな戦は起こっていない。あったとしても、五丈原での諸葛亮と司馬懿の大決戦、そして曹爽による蜀征伐であるが、どちらも姜維は将軍として出陣しており、簡単に危険に晒されるような立場ではなかった。うっかり矢を射られることはあったが、それは姜維本人が素手で矢を掴み阻止してしまった為、危機に陥るようなことはなかったのだ。

 そこまで聞いて、夏侯覇は安堵と落胆に肩の力を抜く。


「そうか……それなら良かった」

「なにか気になることでも?」

「ああ。でも私の勘違いのようだよ、今のは忘れてほしい」

「……分かりました。一応、他言はしないでおきます」


 腑に落ちない様子ではあるが、そもそも張苞は、疑問をしつこく追及することを好む性格ではない。これ以上の追及を拒む、夏侯覇の雰囲気も察したのだろう。その後も特に何も口にすることなく普段通り手合せし、二人はその場で別れたのだった。


 なら、あの記憶は何なんだ――張苞と別れた夏侯覇は、そう独り言ちた。焦っているわけではない筈だが、理由の分からない記憶は彼に焦燥感を抱かせていたのだ。


 夏侯覇は、物心ついた頃からふたつの記憶を抱えていた。

 ひとつは、今の己に関する記憶。どんな遊びをしたか、何を食べたか、覚えて間もない鍛錬の内容、夕餉時に聞かされた父や伯父の武勇伝等という、誰でも持つごく一般的な人生の記憶である。

 しかし、もうひとつの記憶は大きく異なる。いつか何処かで、己が体験した事。国を離れた先で出会った一人の男に関する記憶や、自分自身の末路に関する記憶。必死に生き、逃れ、そして死んだ己の記憶。


 これは、未来視の一種なのかもしれない――あまりに明瞭な記憶に、そう考えたこともあった。だが、その当時の自分の生活からはあまりにもかけ離れていた事。そして何より、親の仇の国に逃れるなどという、親不孝とも思える行為を己が行っているという事実を未来とは認めたくないあまり、人に語る事もできないまま歳を重ねるごとに忘れてしまっていた。

 それが、もう一つの大事な記憶。


 そんな些細且つ重要な事を僅かながら思い出させたきっかけは、もう一つの記憶に強く残る一人の男との出会いだった。長い髪を一つに束ね、整った顔立ちを逆境に阻まれ常に厳しく歪めていた男。見知った者は誰もが評価する、文武両道の天才。生真面目で、一度決めたことは頑なに譲らなかった男。

 敵であり、後の命の恩人であり、夏侯覇にとっては守るべき人であったその人物は、その記憶によれば己の人生に大きく左右する程の重要人物らしかった。

 確かに記憶の通り、かの人物の存在は夏侯覇の全てを変えてしまったようだ。


 だが成都に滞在していた当時の夏侯覇は、そんなことまでは思い出せていなかった。不明瞭な既視感と違和感に時折苛立ちすら覚えながら、それでも新しい環境での生活による疲労や心労の一種だろうと思い込んでいたのだ。

 その中でも唯一気になっていたものが、己が誰かを庇い、矢の雨に貫かれている記憶だった。それが本当に自分自身の記憶なのか、ただの妄想なのか、それがどうしても知りたかったのだ。


「……大丈夫ですか?」

「うわっ!? は、伯約殿……」


 池の見える中庭を眺め、ひとり物思いに耽っていた夏侯覇の顔を突如覗き込んだのは姜維であった。正確に言えば姜維は降って湧いたかのように現れた訳ではなく、数分ほど前から隣で声を掛け続けていたのだ。

 が、夏侯覇があまりにも反応を返さない為、痺れを切らして顔を覗き込んだ――という経緯なのである。


「…………あの時、私、なにか失礼なことをしてしまいましたか……?」


 姜維が心配するのも無理はなかった。呉との会談の帰路、野営をした際のあの(・・)会話の後から時折上の空になるほど、何事かを長く考え込んでいる夏侯覇の様子を見ていたのだ。

 自分の応答に問題があったのかと当日の記憶を思い返しても、陸遜との文の件以外で夏侯覇を悩ませてしまうような事をした記憶はない。


「い、いえ、全然違うんです! 久々の遠出で、少し疲れたのかもしれません。早めに休みます……!」

「あ……」


 その上、絶対に口を割らないのである。こうなってしまっては、彼の悩みの種などまるで思い当たらない姜維では、救いの手を差し伸べることも出来ないのだ。


「……どうしたんだ?」


 逃げるように自室に閉じこもってしまった夏侯覇の背を、姜維は目で追う事しかできない。そんな姜維の背後から声をかけたのは、偶然その場を通りかかった費禕であった。夏侯覇の部屋を眺めたまま首を傾げていた姜維はその声で振り返ると、困ったように眉尻を下げ腕を組み頬に手を添える。


「仲権殿の様子がおかしいのです。調子でも悪いのでしょうか」

「少し働かせすぎたか?」

「そうですね……幸い込み入った仕事もありませんし、休暇の日数をもう少し増やしても良いかもしれません」


 見知らぬ土地での生活で、疲労が溜まっているのかもしれない。そう姜維と費禕も憶測し顔を見合わせると、あたかも事前に打ち合わせたかのように、共にその場を離れた。正確には目的地が同じというだけだったのだが、傍から見れば息がぴったり合っているように見えるだろう。

 実際、部屋に逃げ込んだ後も外の様子を覗き見ていた夏侯覇には、そう見えていたのだった。


「君はどうする?」

「私は一日いただければ」

「ああ、あれだな。分かった。……しかし、あいつは今動けんぞ?」

「たまにはいいでしょう。すぐそこですから、一人で大丈夫ですよ」


 宿舎を通り抜けながら続けられる二人の会話の内容は、姜維個人の休暇の話だろう。だが、それだけにしては、妙なやりとりにも見えるのであった。

 というのも、次第に遠ざかっているとはいえ、二人は耳を澄まさなければ聞こえないほど声を潜めて話しているのだ。ただの休暇の話であれば、そこまで周囲を気にする必要はないにもかかわらず。である。


「久々に俺も行きたいところなんだが、悪いな。良い茶葉を見つけたから、それだけは持っていってくれ」

「ありがとうございます、きっと喜びます」


 これは普通の休暇ではない。と、聞き耳を立てていた夏侯覇は確信したものの、自ら逃げ出した手前声を掛けるわけにもいかない。結局、その日は大人しく自室でこれまでの出来事や自分のこと、周囲のことを思い返し、再び強烈な違和感との戦いに身を投じるのであった。

 ただ寝台に寝転がっていただけなのだが。

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