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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
四章
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四章 四

「――さてと。費将軍には報告しませんが、一応……嘘を吐いていた理由を、聞かせてもらえますか?」


 西陵を発ち巴東(はとう)に差し掛かった辺りで、夏侯覇ら一行は野営をしていた。兵達を順番に見張りにつけ休ませつつ火を囲んでいた夏侯覇は、正面に座る姜維にそう迫る。

 その姜維はというと、叱られる直前の子供の様に縮こまっており、将軍の威厳の欠片も見えないのであった。そんな姿を兵に見られていないことだけが、彼にとっては唯一の救いだろう。


「はい……その……妙な疑いを掛けられるから、文偉殿には黙っていてほしい。と言われまして……」

「伯言殿から、ですか?」


 ええ、と硬い表情のまま姜維は頷く。自分に有益な嘘など吐かないだろうと思われる、実直な彼の事だ。嘘がばれた今この時ほど、恐ろしい時間はないのだろう。それが同盟先の目上の人間からの依頼ならば仕方がないとはいえ、断れなかった事も気に病んでいるに違いない――などと同情したくなる程にか細い声で答えるものだから、夏侯覇も面食らってしまっていた。


「文偉殿に伝えられない以上、他の皆の耳に入れるわけにもいかないので……黙っておりました……嘘を吐いてしまい、申し訳ありません……」

「あ、いえ。咎めるつもりで聞いたわけではないので、気に病まないでください」

「ですが、仲間に嘘を吐くなど……」

「向こうからの申し出なら、仕方ないでしょう」


 深々と頭を下げ謝罪を口にする姜維の姿は、初めて目にした――筈だ。

 何故か既視感を覚えながらも、必要以上に怯えるその姿が不憫でならない。姜維本人の見た目の華奢さも相まって、女子供を責めているような感覚に陥るのは非常によろしくないのである。例えばこれが馬岱であったら、絵面だけは完全に子供を虐める大人の図だろう。間違いなく犯罪者だ。

 ここは、まだ姜維でよかったと思うべきなのかもしれない。と、姜維と比べると図体が立派な男は、ほんの少し肩を竦めたのであった。


「ただ……情報は、大丈夫なんですか?」


 最も重視するべき事柄は、そこである。いくら同盟国が相手とはいえ、他国へ機密情報を漏らすようなことがあっては、姜維個人の沽券どころか蜀漢という国の存続に関わるのだ。

 とはいえ、夏侯覇はその辺りの心配を一切していなかった。最初に「念のため」と言った通り、あくまで事実確認をしたいだけなのである。今のところ彼に非がある状況が発生していないからこそ、そんな思いでいられるのだろうが、それはそれで幸運なことだと夏侯覇は思っていた。


「はい、その辺りは抜かりなく。重要な情報は一切漏らしておりません……本当に雑談のようなものなのです」

「確認しても?」

「ええ。漢中に戻ったら、全てお見せします」


 それが聞けてよかった。そう夏侯覇が漏らすと、姜維も僅かに安堵したのか肩の力を抜いたように見えた。が、慌てて周囲を見渡し兵がいないことを確認すると、顔を近づけ今更囁くような小声で念を押すのであった。


「……その、皆様には……」

「大丈夫ですよ。両国間の信用問題にもなるでしょうし、ちゃんと黙っています」

「ありがとうございます……」

「いえ。病で気を揉んでいる仲謀殿の耳に入れば、伯言殿も困るでしょうしね」


 両国の重鎮が文通友達などと聞いて、皇帝の二人が良い顔をするとは思えない。特に孫権は気性が荒く、運が悪ければほんの些細なことでも家臣を処罰する事があると聞く。今はまだ良いが、今後両国の関係が悪化した際など、真っ先に二人が槍玉に挙げられることにもなるだろう。そんな危険を冒してまで文通をする陸遜もどうかしているとは思うが、余程楽しいのか、わざとやっているのか。それとも、他に何か考えがあるのか。

 夏侯覇にはその辺りは、まるで理解できないのだった。


「孫仲謀殿が病……ですか? 病などされておらず、お元気であると聞きましたが……」

「え……?」


 寝耳に水とばかりに瞬きを繰り返す姜維の言葉を聞いて、そんな筈はない。と、夏侯覇は思わず叫びかけた。

 病を患った孫権は後継者として指名した子供より別の子を愛し、後継者争いを引き起こした筈だ。その中で多くの家臣が刑死し、憤死し、左遷されるという憂き目に遭っている。そのお家騒動は他国にも伝わり、魏に付け入られる隙を与えていた筈なのだ。

 ――いや、違う。この時期はそれすらも終わっていた筈ではなかったか。呉の皇帝が変わり、魏が呉に攻め入ったところを狙い、蜀は北伐を行っていたのではないか。


「今のお元気な間に後継もしっかりお決めになったらしく、家臣も皆安心している……と、そう伯言殿は仰っておりました。昨日の話なので、間違いないかと」


 この時期、孫権は既に没している。昨日まで話していた陸遜すらも、生きている筈のない人間だ――

 思い出したかのようにそんな考えが頭に浮かんだ夏侯覇は、しかし冷静に己の記憶と知識を疑い始めた。おかしい。そう、何かがおかしいのだ。蜀に亡命してから、ずっと胸の隅に引っかかっていた小さな疑問。その氷山の一角が遂に表に出てきたような、そんな気持ちであった。

 しかし、今目の前で起こっている現実がおかしいのか、己の記憶と知識がおかしいのか、自分では分からない。


「…………仲権殿?」


 ただ、得体の知れない何かを、己も知らないような何かを、己の記憶は知っているのではないだろうか。

 急に黙り込んだ夏侯覇を訝し気に見上げる姜維を気に留めることも出来ず、夏侯覇はひとり考えに耽る。自分の事が信じられず、自分の記憶が信じられず、そう悩まずにはいられなかったのだ。

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