四章 二
「──へ? 私もですか?」
会談相手として姜維が指名されたことを聞かされた翌日、費禕に呼び出された夏侯覇は、執務室で棒立ちのまま素っ頓狂な声を上げていた。
「ああ。君なら、護衛としても申し分ないだろう」
「それは、自信を持って頷きますが……維之殿では?」
会談に向かう姜維の護衛としてついて行くよう、夏侯覇に指名がかかったのだ。この指名は当然呉の大都督からではなく、大将軍である費禕の独断であった。兵も十数名は連れて行くが、それに加えての護衛役という事である。
夏侯覇の反応が余程面白かったらしく、腹を抱えて笑う費禕を見下ろしながら、指名された夏侯覇は一番の疑問を口にしていた。
関索――そう、関索である。姜維の義兄であり、異常なまでに義弟に執着しているあの関索こそ、姜維の護衛としては適任だろう。そんな姜維の終身名誉護衛隊長を旅の共につけないなど、夏侯覇の常識では考えられない事なのだ。
「あいつは駄目だ。維之は、あの国に肉親を奪われているからな」
過去に荊州を守備していた関兄弟の父・関羽と長兄・関平は、同盟国の呉が秘密裏に魏と組んだことにより挟撃され、最終的には処刑されている。普段陽気に振る舞っている関兄弟もまた、夏侯覇や姜維と同じく戦で肉親を失っているのだ。
「ああ……そうでしたね。しかし、そういった事はある程度割り切って、任に就くのでは……?」
「これが、そうでもないんだな……維之はその辺り、全く割り切れていない」
「そ、そうなんですか……随分と根が深いんですね」
蜀において、呉との戦で身内を失った者は存外多い。しかし現在は既に同盟が復活しており、魏と呉が組む可能性も限りなく低いため、本心はどうあれ、ある程度は割り切って接している者が多いのではないか。夏侯覇はそう考えていたのだが、意外にも、あの関索は全く確執を取り払えていないのだという。
とはいえ、仇敵の国に亡命する夏侯覇のような人間こそ稀な存在のため、その辺りは夏侯覇がどうこう言える立場ではない。
「あいつは末子だから、長兄に相当可愛がられていてな。所謂、お兄ちゃんっ子ってやつだ」
「おにいちゃんっこ」
あまりにも、今の関索からはかけ離れた単語であった。あの関索が、義弟には執着する癖に実兄には若干反応が薄いあの関索が、お兄ちゃんっ子だったというのか。
全く想像がつかず、その違和感塗れの言葉を反芻しながら唸る夏侯覇であった。
「その兄と、尊敬する父を殺されたのはどうにも割り切れるものじゃないらしい。……ま、その気持ちはよく分かるから、あいつは呉には行かせられないのさ」
「そこで、私の出番という事ですか」
「ああ。副将として、初めてのらしい仕事だ。張り切ってくれよ?」
「そう言われてしまっては、此方も引けませんね……了解しました、しっかり守ってきます」
腑に落ちない点は多いが、理由が理由なだけに納得せざるを得なかった。どこぞの国では、親の仇である味方を度々殺そうと画策していた人物もいると聞く。そんな事を同盟相手にされては国家間の問題になりかねないため、どうしても会談には連れていけないのだろう。
しかし、我儘を言って漢中に移動した事も含め、関索は随分と甘やかされているようにも思えるが、扱いに問題はないのだろうか。そんなことを費禕を問いただしたいところではあるものの、まだ費禕が言葉を続けようとしていたため、それはまた別の機会に回すことにした。
「……とはいえ、将軍にこんなことをさせるのは、流石に申し訳ない。戻ってきたら少し休暇を入れるから、その辺りは安心してくれ」
「え、いえ。そこまで気を遣っていただかなくても……」
言われてみれば、自分は仮にも車騎将軍である。姜維の副将ではあるが、一兵卒でも出来るような護衛の任に就けるのは確かにおかしな話だ。その筈なのだが、そもそも夏侯覇が姜維の副将を務めていること自体がおかしい事である為、その疑問に行きつくことがなかった。夏侯覇は、異常な人事にすっかり慣らされてしまっていたのだ。
とはいえ、亡命して初めての任務らしい任務である。肩慣らしにもならないが特に文句もない為、要人の護衛となればしっかり務めるつもりであった。
「いや、本来なら俺と維之の仕事だ。それを君らに押し付けるんだから、それなりにはな」
「……外交官は、今回動けないんですか?」
会談は、宰相の費禕が動けないのであれば、外交官が動くべき案件である。しかしここまで、外交官の話は費禕からも姜維からも出てこなかった。どこで何をしているのか、何故会談に出れないのか――が何一つとして判明していないのだ。
そんな夏侯覇の疑問に、費禕は僅かに苦笑を浮かべながら肩を竦める。飄々としてはいるが、今回の件に関しては、どうやら費禕も不本意な状況ではあるらしい。
「ああ、彼は別件で成都にいてな。今回は、ちょっとばかり手が離せない」
「それで大丈夫なんでしょうか……」
「仲謀殿が相手ならまずいが、大都督なら……まあ、なんとか」
現在の外交官は、呉の皇帝・孫権から手紙や贈り物が届く程、大層気に入られている人物らしい。故に、孫権が相手であれば、どんな理由があってもその人物が行かざるを得なかっただろう。
だが、今回の相手は大都督。皇帝より立場は下であり、人の好き嫌いはあまりない人物らしい。故に、それなりの立場の者が行くなら問題ないと踏んだのだろう。
「付け込まれませんか?」
「その辺りは、伯約に上手く立ち回ってもらおう」
費禕は簡単に言うが、果たして姜維にそこまでの機転が利くのか。と、夏侯覇としては少々不安な状況であった。確かに姜維は内政をそつなくこなすが、外交の手腕については全く聞いたことがない。普段の人との接し方は、どちらかというと相手の勢いに圧されることが多いようにも見受けられるため、外交には向いていないようにも感じられるのだった。
とはいえ、普段の話し相手も悪いのだろうが。
「ま、心配しなくても大丈夫だろうさ」
そんなことを言いながら、費禕は予定を書き記した書簡を夏侯覇に手渡し、呑気に笑っていた。
「……本当に大丈夫かなぁ」
陸遜に用意された寝室でごろごろと転がりながら、妙な胸騒ぎのせいで寝つきの悪い夏侯覇はそう独り言を漏らし、出発前の費禕の様子を思い出していたのだった。




