四章 一
呉の領土、荊州郡江夏の西陵へ訪れていた姜維と夏侯覇は、待ち構えていた呉兵に導かれ町の中心部の一際大きな建物へと辿り着いた。
「お久しぶりです、伯言殿」
「伯約殿! 御足労いただき感謝致します。さあ、此方へ」
待っていたのは、呉の大都督・陸遜。呉の四代目の大都督であり、若い頃は山越退治で功を上げ、その後樊城、夷陵等の対蜀戦で一気に名を上げた呉が誇る名将である。
その噂は、魏でも度々耳にしていたが、夏侯覇が彼を実際に見るのは今回が初めてであった。
「そうだ、紹介させて下さい。私の息子です」
「初めまして、姜将軍。私、陸幼節と申します。未だ士官はしておりませんが、後学の為、この場にご一緒させていただく事をお許しください」
「初めまして。貴方が、伯言殿ご自慢の……お父上に、良く似ていらっしゃる」
会議用の広間に通された二人の元へ現れたのは、姜維よりも若い少年。彼は、陸遜の次男の陸抗である。仕官していない無関係な人間を会談に交えてもいいのかと夏侯覇は首を捻るが、流石に重要な話の際は部屋を出るらしい。
初めて他国の重鎮を目にしたことで緊張しているのか、目が泳いでいる少年を微笑ましく眺めていた姜維と夏侯覇へ、息子とは対照的に場慣れした落ち着きのある声が掛けられた。
「……して、伯約殿。そちらの方は?」
「ああ、紹介が遅れて申し訳ありません。私の副将です」
夏侯覇と陸遜の間に挟まる形で立っていた姜維は横に逸れ、視線で夏侯覇に何かを促す。挨拶をしろ、ということなのだろうと理解した夏侯覇は、その場で拱手し漸く陸遜と向き合った。
「夏侯仲権と申します。かの名高き陸伯言殿にお会い出来るとは、良き日となりました」
「夏侯……ああ! 文で話されていた、あの!」
「へ?」
「ええ、その通りです。今は我が国で、車騎将軍に就いておられます」
夏侯覇が名乗った途端、陸遜は目に見えて表情を明るくする。文で話していたということから予め姜維が夏侯覇の話をしていたのだろうが、それにしては喜び方が異常であった。
護衛役として夏侯覇が同伴する――という話だけを伝えていたのではないのだろうか。そう問いかけるつもりで姜維に視線を向けた夏侯覇だったが、姜維は陸遜の方に集中しているのか、夏侯覇の視線に気づく様子も疑問に答える様子もない。
結局、疑問に答えたのは陸遜の方であった。
「夏侯将軍、お話は伯約殿より聞かせていただいておりました。蜀までの道中、よくぞご無事で……そして、伯約殿を支えて下さっている事、私からも礼を言わせてください」
「いえ、そんな……私は、彼に命を救われた身ですので……」
まさか己の決死の逃避行の話まで伝わっていたとは思わず、頭を下げた大都督の反応に夏侯覇は面食らった。
会談の打ち合わせに関する文を書いた際に、そこまで書くものだろうか。いやしかし、魏の重鎮である己が蜀に居る以上、経緯は伝えるべきなのかもしれない。
そう思考を巡らせながら再び姜維に視線を向けたが、やはり姜維は夏侯覇の視線に気付かない。まるで姜維の親兄弟の様にしきりに感謝を述べる陸遜の勢いに押され、夏侯覇は狼狽えるばかりであった。
しかし、後になって考えれば、姜維はわざと夏侯覇の視線から逃れていたのだろう。後ろめたさがあるからこそ、不自然に視線を逸らしていたのだ。
そんな和やかな雰囲気のまま本題に入るわけもなく、一旦旅の疲れを癒すようにと言われ個別に部屋に案内された夏侯覇は、翌日の会談に向けてすぐに休むことにした。だが、夕飯までしっかり食べていい感じの睡魔に襲われはしたものの、寝台に横になった途端己の胸に広がるざわつきに睡眠を妨害される。
やはり、何かがおかしい。陸親子が、ではない。呉の兵士の様子でもない。それ以上の、もっと根本的な何かがおかしい。
強烈な違和感が、夏侯覇の胸中を穏やかにはさせてくれなかった。




