三章 八
「お疲れ様でした。我が国の兵は如何でしたか?」
訓練や鍛錬を一通り終えた夜、夏侯覇は姜維の部屋に晩酌に訪れていた。といっても、訪れたその時まで姜維は紙に筆を走らせており、彼がその日の仕事を終わらせたようには見えなかったのだが、これは気にしなくていいと語り筆を置くのだった。
「質が良いですね。正直、教えられることはあまりないと思います」
「それは良かった。出来が悪いと言われては、これまでに育成していた私達の立つ瀬がありませんから」
「あはは……しかし、弓の腕はまだまだ伸ばせそうです。そこはしっかりと、育成させてもらいますよ」
張り切って両手で拳を握った夏侯覇を眺めながら目を細めた姜維は、夏侯覇の杯に酒を注ぐ。普段は飲まない彼にしては珍しく今回は姜維も酒を口にしていたが、流石に費禕や馬岱に絡まれた時のような、酷い酔い方はしないようである。
その代わり、いつぞやの宴で義兄の暴走から一人逃げたことを根に持っているのか、夏侯覇には随分と酒を勧めるのであった。
「流石です。先日披露されていた技も、お見事でした」
「見ていたんですか?」
少しだけ、と笑いながら酒を飲む姜維を眺めながら、夏侯覇は思わず頭を掻く。亡命して初めての訓練という事で、兵達を黙らせる為にも張り切ってとっておきの技を兵達に見せたのだが、それを姜維にまで見られているのは完全に誤算だったのだ。大人げないところを見られてしまったと、実にばつが悪い。
「誇って良い腕前だと思いますよ。私も、あれほどの技は見たことがありません」
しかし、思いのほか無邪気に称賛されてしまい、反応に困った夏侯覇は礼を口にしながら照れるしかなかった。今宵の姜維は酒が入り気分が良いのか、普段より饒舌であったのも夏侯覇の調子を狂わせている。
仲間の普段見れない姿を見れるというのは良い気分がするものだが、妙に酒を勧めてくる事といい、流石にここまで押されているのは負けず嫌いのきらいがある夏侯覇としても大人しくしていられない。せっかくだから此方も褒め返してやろう、などと謎の対抗意識を抱き、未だ話題に上がっていない彼の特技を記憶の隅から掘り返す。
「そんな伯約殿こそ、飛んできた矢を掴むという、凄まじい技をお持ちだと……」
「だ、誰から聞いたのですか……? あまり、私の痴態を広めないでいただきたいです」
思わぬ仕返しになってしまった。
姜維が射られた矢を掴んだ――という話は、まだ諸葛亮が生きていた頃の戦で広まった話である。兵の一人が姜維に向けて矢を飛ばしたが、頭に直撃するかと思われたその時、彼はその矢を掴み取り何事もなかったかのように戦闘を再開したのだという。その姿に弓兵達は怯み上がり、その戦で姜維に弓を向ける者がいなくなってしまったのだ。
手にした得物で矢を払う者なら何人か見たことはあるが、手で矢を掴んだ者は姜維以外に見たことがない。そんな話を聞いて、自分の天敵に違いない。と、弓馬を得意とする夏侯覇はほんの僅かに恐怖していたのだった。
「いや、誇って良いと思いますよ……? 魏でも、弓が効かない将として弓兵の間では有名でしたし」
だが姜維は、その凄技を“痴態”と評している。褒め倒すつもりが辱めてしまった事に夏侯覇も困惑するが、それのどこが恥ずかしいのかが分からず、首を傾げるばかりであった。
「驚いて掴んでしまっただけなのです……忘れて下さい……」
「驚いた程度で、そんなことが出来るんですか……」
「出来てしまいました……」
それは意外にも偶然出来てしまった技であったらしく、本人は動揺してやってしまった所業ゆえに恥じ入っているのであった。恥じらうところが違うのではないか、とは敢えて口にはしなかったが、どこか感性がずれているのは義兄の影響なのか元々持っていたものなのか。未だに姜維のそういった性格は、よく理解出来ていないのだった。
とはいえ、咄嗟に弓を掴むことが出来る等並の人間ではできる事ではない為、この男は間違いなく蜀が誇る勇将である。小奇麗な顔と、常時の淑やかな態度で騙されてはいけない。自分と同じ、汗と泥と血に塗れて生きる武人なのだ──と、夏侯覇は己に言い聞かせていたが、最近はどうにもこの目の前の男と戦場が繋がらない現象に、度々見舞われていた。
最近武芸を目にする機会がないのが原因とは考えられるが、姜維は個人で密かに鍛錬を行う事を好むらしく、彼が鍛錬を行っている姿を見ることは今までなかったのだった。稀に誰かと手合せしている時などは兵達で人だかりが出来るというのだから、その程も知れるだろう。生粋の武人だというのに、変わった男であった。
「……ところで、先程書かれていたものは……?」
本人が恥じらっている以上不要な追及も気が引けた為、咳払いをしながら話題を変えようと夏侯覇は卓の紙に視線を向ける。それは先刻まで姜維が筆を走らせていた紙であり、内容はよく見えないが文の様にも見えたのだった。
「ああ……呉の大都督への文ですよ」
「呉の大都督……?」
今の呉の大都督とは、誰であったか――記憶を辿ったが、どうにも夏侯覇はその人物の記憶が思い出せない。そもそもこの時期、呉に大都督はいただろうか。などと首を捻りながらも、それよりも突っ込むべき問題がある事に気付く。
「何故、伯約殿が文を?」
「会談についての打ち合わせですね」
「…………大都督と?」
「ええ、大都督と」
流石に文の内容までは見せなかったが、会談はそれほど畏まったものではなく、蜀呉同盟や両国間の交易についての打ち合わせのようなものだと姜維は語った。
しかし、畏まっていないとはいえ、そんな仕事を姜維の立場で引き受けるようなことがあるだろうか。そんな疑問を口にすると、注がれた酒を飲みながら夏侯覇は僅かに首を傾げる。
「ご指名がかかりまして」
「費将軍ではなく……ですか?」
「そうなのです。文偉殿は代理で私に行かせるつもりだったらしいので、同じ結果にはなっていたと思いますが……」
夏侯覇は知り得ない事ではあったが、先日費禕が漏らしていた「手間が省けた」という言葉の意味がこれであった。今回の会談に関しては費禕が漢中から動けない用事があるため、初めから姜維に行かせる腹づもりだったらしい。その用事については姜維にしか説明されていないようだが、しっかり説明を受けて相互理解は済んでいるのだという。
「はあ……むしろ、良い口実が出来たという感じですか」
「そういうことになります。もしかしたら、それを見越しての指名だったのかもしれませんね」
これまでの話では費禕からの働きかけがあったとも思えないが、呉の大都督側が勝手に察して動いたのだとしたら末恐ろしい話である。費禕と大都督がそこまで親しい間柄なのか、はたまた姜維がその対象なのかは夏侯覇には分かりかねたが、姜維がそう憶測するという事はあながちありえない話でもないのだろう。
全く思い出せない大都督の印象が、夏侯覇の中では畏怖で固まりかねないが、姜維の側でそれを否定するつもりはなさそうである。
「頭の良い人の考えには追いつけません……」
「あの方は特別ですよ」
はは、と笑いながらちびちびと酒を飲む姜維に対し、夏侯覇は豪快に杯の中の酒を飲み下しながらも、どこかすっきりしない感情に包まれていたのだった。




