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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
三章
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三章 七

 漢中の将軍府では、遂に夏侯覇による弓馬の訓練が始まっていた。

 元魏将が自分たちの訓練を担当すると聞いていた兵達の反応は、素直に受け入れる者、反抗的ながらも渋々従う者に二分されていた。なにせ長らく敵対していた人間だ。上層の面々のように、あっさり受け入れる方がどうかしているだろう。などと夏侯覇も考えていた為、多少の反感は今更気になるものでもない。


「よし、そこまで!」


 兵達の弓馬の腕を見ていた夏侯覇は、全員が回ったことを確認すると父譲りのよく通る声で号令をかけ、口角を上げてその場の兵達を見渡した。


「皆、筋がいい。山岳の多い地で、ここまでの精度を誇る弓馬の術が見れるとは思わなかった」

「ありがとうございます!」


 亡命してから今まで個人的な鍛錬はしていたが、兵を率いての訓練は久々である。訓練特有の僅かに張り詰めた空気は、なんだかんだ言って心地よかった。それに加えて気分が良くなる要因が、蜀兵の精強さである。

 正直なところ、魏軍として対峙していた頃は蜀軍の実力を侮って見ていた事は否定できない。夏侯覇が最も多く戦場に出ていたのは、諸葛亮が軍を率いていた時代だった。その頃、蜀は度々北伐を行うものの、その度に敗北を繰り返していたような有様だったのだ。魏から攻め込んだ際には己が散々に打ち負かされてはいたが、それでもやはり国力の差は大きく、母国の方が勝っていると思い込むのも当然だろう。しかし、実際に内部に入ってみると両国の兵の実力には差が殆どなく、ほぼ山岳地帯という国土の悪条件を踏まえれば、寧ろ蜀の騎馬兵の方が勝るのではないか。とも思える。

 それでも、彼らが優位に立てないのは何故か――と聞かれれば、国力の差と答える他ないだろう。実際、軍に割ける人材に関しては、魏の半分程度も居ないのではないかと考えられる。それをこの国の将兵に伝える事は、心苦しくて出来ないのだが。


「だが、皆はもっと伸びるな。その手助けを、是非私にさせてほしい」


 褒めた程度では、反抗的な兵達は靡かない。しかし、手本として夏侯覇が弓馬の術を披露すると、そんな空気も一変する。

 弓馬とは、乱暴に言えば巧みに手綱を扱い、的へ的確に矢を当てるものである。たったそれだけの事だが、兵達がこれまでに見てきた将の誰よりも、夏侯覇の弓馬の術が優れていたのだ。ただ的に当てるだけではなく、馬を扱いながら的確に中心を射抜き、更には射抜いた矢すら次の矢で射抜く――所謂、“継ぎ矢”という奇跡的な技を見せられたのだ。流石に、反抗的だった兵であっても興奮したのだろう。あっという間に鍛錬場は歓声に包まれ、夏侯覇の周囲には尊敬の眼差しを向ける兵が集まっていたのだった。

 夏侯覇の父・夏侯淵は弓の名手であったが、夏侯覇はその腕を受け継ぐだけでなく、加えて馬術も磨き上げた。それは父の後を追う為でなく、父を追い越し且つ支える為である。結局、父を支える事は叶わなかったが、時を経て亡命先の人々に一目置かれる技術になったのは、本人としても喜ばしい事であった。


 そんな歓声を聞きながら、鍛錬場に面した廊下から訓練の様子を眺めていた費禕と姜維も、ほっと胸を撫で下ろしていた。


「……彼は、褒めて伸ばす方でしたか」

「はは。初っ端からあんな腕前を見せつける辺り、考えなしにやっている訳ではなさそうだな。なかなかいい性格じゃないか」


 休憩ついでに訓練の様子を窺っていたいた二人だったが、容易く兵達を懐柔した夏侯覇の手腕には思わず感心せざるをえない。なにせ、どんな理屈をつけようと、夏侯覇は元々は蜀の天敵とも言っていい魏の重鎮だったのだ。それがこうも容易く人心を掴むなど、考えられなかった。少なくとも姜維は、いつでも助け舟を出せるよう構えていた。

 だが、その不安は杞憂に終わってしまったのだ。喜ぶべきところではあるが、拍子抜けしたというのも事実である。年季の差もあるだろうが、夏侯覇は姜維が蜀に来た頃より、ずっと上手く立ち回っている。それには、少しばかり羨ましいとまで思ってしまう始末だった。


「ええ。流石は重鎮としてやって来た方です、今後もお任せしても問題ないでしょう」

「これで、騎馬兵は大丈夫か。あとは……」

「呉では?」

「会談か」


 二人は踵を返すと、再び執務室へと戻る。なにせ、宰相とその後継の二人なのだ。本来ならば他人の訓練をいちいち見ているような暇がある立場の人間達ではないのだが、その辺りは仕事の早い費禕のお陰か、立て込んだ用事がないお陰か、現在は余裕があるのだった。

 姜維が切り出した話題は、呉との会談。蜀呉の間では同盟や交易について、定期的に呉の大都督との会談の機会が設けられているのだが、その時期が迫っていたのだ。


「向こうからの連絡は、もう届いているのですか?」

「ああ、それなら君にご指名だ」

「……私、ですか?」


 会談役として指名されたのが自分と聞いて、姜維は眉を顰める。本来であれば蜀の宰相である費禕か、外交官が当たるべき仕事であるにもかかわらず、何故どちらの立場でもない自分が指名されたのかが分からなかったのだ。


「しかも、大都督から直々のご指名だぞ。一体何をしてきたんだ?」

「普通に仕事をしてきただけですが……」

「前回の会談から、文のやり取りをしてるだろう」


 確かに姜維は、以前の会談の際に外交官の補佐として共に大都督と顔を合わせている。その上、現在に至るまで文のやり取りもしている。が、それはあくまで交易に関する内容であり、私事は一切挟んでいない。それで気に入られたとしても、蜀呉の同盟についても関わってくる会談に出て行くには、姜維はまだまだ外交官としては未熟なのだ。とはいえ、相手から指名された以上はしっかりこなさなければいけないだろう。

 姜維は勿論、費禕も首を捻りながら、思案を巡らせていたのだった。


「まさか、御しやすいと思われて…………いるわけないな。君に限って、そんなことがあるわけがない」

「はい、常に堂々と相対しています。年長者故、礼は尽くしていますが、(へりくだ)ってはいない……筈です」


 己が送った文の内容を思い出しながら、特におかしな点はなかった筈、と自問自答を繰り返しながら姜維は頷く。実際に目にした、かの人物の性格や文の内容を鑑みても、自分が侮られているとは考えられないと、思いたい。

 いかんせん、大都督とは実の親程度には年が離れている為、若輩者と思われていても不思議ではないのだ。姜維は、次第に不安が募っていくのを抑えられなかった。


「なら、気に入られているだけか……流石だな」


 そんな姜維を尻目に、費禕はいつも通り前向きに受け取る。が、()()()()()()と漏らす宰相の言葉をしっかり耳に入れ、機嫌を損ねた姜維に追及を受け、費禕は今回の会談についての概要と共に己の考えを伝える為、その日の残り数刻を全て費やす事になるのだった。

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