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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
三章
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三章 六

「なるほど、出所は趙子龍だったんですね」


 無事疑問が解消された夏侯覇は、満足げに口角を上げながら、腕を組みうんうんと頷いていた。華武者という呼称は、非常に限定的な人間の間でのみ使用されていたものだったのだ。

 であれば何故、友人である筈の尹賞と梁緒がこれほどまでに姜維が恥ずかしがっている呼称を夏侯覇に伝えたのかが、当然疑問として残る。だが、同郷の者という事で気を許していたのか、姜維の副将となっている事で信用に値すると思われたのかのどちらかなのだろう。運が良ければ、そのどちらでもあるかもしれない。もしかしたら、そこまで言葉を尽くして褒められた姜維を自慢したかっただけなのかもしれないが。


「……これで満足しましたか?」

「ええ、どうもありがとうございます。おかげですっきりしました」

「僕も」


 一方姜維は、当時の羞恥を思い出したのか、ぎこちない真顔で夏侯覇から視線を逸らしていた。流石にもう子供と言える年齢ではないため、目に見えて恥ずかしがることはないようだが、それでも多少は羞恥に弱い性格の名残があるように見える。


「あ、兄上!? いつの間に……!」


 いつの間にか姜維の背後でにこやかに微笑んでいた関索もまた、後にそんな感想を後に口にしたのだが、それは姜維の知るところではなかった。


「先程から、伯約殿の背後にいらっしゃいましたよ?」

「何故言ってくれないのですか……!」

「維之殿が楽しそうだったので、つい」


 突如現れた関索の侵入経路はこうだ。

 姜維は回想にふける間、度々視線を逸らし、羞恥を誤魔化す様に目を閉じたり視線を虚空に彷徨わせたりしていた。関索はその隙をついて夏侯覇の背後から室内に侵入し、卓や棚の影を巧みに利用し姜維の視界から悉く逃れ、遂には姜維の背後を取るに至った――というものである。

 尚、夏侯覇は侵入劇の全てを黙って眺めていたが、関索を止めるつもりはなかった。触らぬ神に祟りなし、の精神である。


「伯約があの話をするなんて珍しいから、聞き入っちゃったよ」

「へぇ……そんなに貴重な話なんですか」


 恥か怒りからのものは分かりかねるが、わなわなと身を震わせている姜維の隣に座り、まるで逃がさないと言わんばかりに片腕を掴んでいる関索の様子は、普段の能天気な義兄馬鹿(あにばか)さとはかけ離れた策士ぶりだ。が、関索は恐らくそこまで深く考えてはいないのではないだろうか――と、二人の様子を眺めていた夏侯覇は、一人唸る。

 というのも、関索の身体接触の多さはいつもの事であり、姜維が相手となるとそれは更に悪化する。そして今回の関索の言動も、その行動様式から外れていないのだ。どう考えても、意図したものではなく天然ものだろう。


「ええ。伯約にとっては苦い思い出なので、なかなか人には話そうとしないんですよ」

「そんな事は教えなくていいですから……!」

「ああ……だから言い渋っていたんですね」


 悪いことをしたな、と夏侯覇は反省しつつも、姜維の反応の良さから少し現状を楽しみ始めていた。姜維の方も義兄に対し少なからず遠慮しているのか、本気で怒っておらずまるで覇気がないのも、そんな失礼極まりない感情を増長させてしまった原因である。


「そうなんですよ。僕達の馴れ初めなのに、ちょっと寂しいです」

「……その言い方は止めてください」


 説得も抵抗も諦めたのか、姜維は力なく肩を落とし消え入りそうな声でそう呟く。当然、関索も言葉通りの意味で使っているわけではないだろうが、天水での邂逅が義兄弟になったきっかけのひとつなのではないか――そう思いつくと、とりあえず聞いてみたくなるのが夏侯覇という男であった。


「お二人が義兄弟になったのは、それがきっかけなんですか?」

「そうですよ」

「……そうだったのですか」


 にこやかに答える関索の隣で、何故か姜維まで驚いた様子を見せ、瞬きを繰り返しながら隣に座る義兄を凝視する。


「伯約殿も知らなかったんですか……?」

「ええ……兄上には、初対面の時から良くしていただいてはおりましたが、それがきっかけというのは初耳です」

「なら、どうやって義兄弟に?」


 予想外の反応に夏侯覇は正面に座る義兄弟を見比べるが、呆気に取られている姜維とは対照的に関索は笑顔を崩さず、寧ろこうなる事を分かっていたのではないかと疑いたくなるほどに一切の動揺を見せない。

 もしかしたら、関索は想像以上に計算高い男なのではないか。そう疑問をぶつけたくなる夏侯覇であったが、そこを突くにはまだ少し勇気が必要だった。


「僕が強引に!」


 その上、警戒を強めた途端に、このあっけらかんとした返答が返ってくるのだ。どこからどこまでが計算なのか、夏侯覇には判断がつきかねる。よく姜維はこんな底の知れない人物と義兄弟を続けているものだ、と感心してしまう始末だ。

 しかし、それはそれとして、話の内容についてはまた別の問題であった。強引に義兄弟になったとは、一体どういうことなのか。そもそも、強引に契りを結べるものなのだろうか。夏侯覇の疑問は多方面に膨らみ、思考があちこちへ飛びかけそうになるのを必死に堪えていたのであった。


「そ、そんなことってあっていいんですか……?」

「あるのですよ……ここに」

「どうしてそこまで……」


 愕然とした夏侯覇が疑問を投げかけると、途端に関索は照れた様子でもじもじと指先を遊ばせながら視線を泳がせる。が、その顔に貼り付けられていたのは締まりのない笑みであったため、いじらしさより気味悪さの方が勝った。


「……その……弟として、最高の人物だったので……」

「ええ……」

「それと……丞相に褒められて恥ずかしがっていたのが、可愛くて……」

「…………知りたくない、情報でした……」

「伯約殿……!!」


 轟沈した。姜維は体の力をすっかり失い、卓に突っ伏す様に倒れ込み轟沈してしまったのだ。

 しかし、無理もないだろう。羞恥で打ち震えている己の姿を、よりにもよって義兄に可愛いと思われていたなど、出来る事なら一生知りたくない事実であったに違いない。しかも、義兄は義兄で「あ、大丈夫だよ! 今も可愛いよ!」などと擁護という名の追い打ちを掛けるのだから、心中察するに余りある。


 結局それ以上の言及をする気力も勇気もなくなった夏侯覇は詫びを入れながら姜維を解放したのだが、完全に熱の入った関索からの解放は叶わず、姜維を褒めたいのか辱めたいのか分からない称賛を散々に聞かされ続ける事になったのだった。

 勿論、目の死んだ姜維も交えて。

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