三章 五
笑顔の梁緒が蜀兵を引き連れて姜維と尹賞を迎えに来たのが、一刻程前の事。
蜀の陣まで連れていかれた姜維達三人は、扇を携えた一人の男の前に出される。青年と呼ぶには年齢を感じさせる物腰であり、しかし老人と呼ぶ程くたびれてもいない。初老の域に達しているようにも見受けられるその男は、腹が立つほど落ち着き払った雰囲気を纏わせながら、片膝をつき拱手する彼らに視線を浴びせていた。
「ふむ……この方が、胡蝶の如き華武者ですか」
散歩でもするかのように三人の周囲を歩き回っていたその男は、姜維の正面に立つと感慨深げにそう呟く。一見、これ以上ない程の称賛にも思えるが、“胡蝶”だの“華武者”だのと言われて素直に受け止められる男が居るだろうか。
少なくとも姜維は、それが己に向けられた言葉だとは思えず、また思いたくもなかった。
「失礼。私は諸葛孔明、この軍の総司令官です。貴方が、天水の麒麟児と呼ばれる姜伯約殿ですね」
「は、はい。そう呼ばれることもありましたが……華武者とは、一体……?」
男の名は、諸葛亮。字は孔明。蜀の丞相であり、臥龍と呼ばれる天才である。そして、姜維の考えが正しければ、この戦の中で馬遵を疑心暗鬼に陥らせ、姜維が孤立する原因を作った張本人でもある。
しかしそんなことも吹き飛ぶほどの衝撃的な単語の前に平常心を保てなかった姜維は、真偽を確かめるよりも先に疑問を口にしてしまった。彼の両脇で畏まっている尹賞と梁緒もまた、僅かに視線を合わせ互いに首を捻る。蜀側が姜維を高く評価していることは分かったが、一体どんな前評判を耳にしたのか。と、不安を抱かずにはいられなかったのだ。
「ああ、それは貴方と一騎討ちをした趙将軍の評です。美しい少年。舞の様な軽やかな槍さばきでありながら、一撃一撃が重くまた鋭い。あれぞ正に、胡蝶の如き可憐な華武者と称するべき──と、絶賛しておりましてね」
「な、な……!?」
「彼の観察眼には恐れ入ります。まさか数合打ち合っただけで、そこまで……」
いえ、今その話はいいでしょう。と、話を切り上げた諸葛亮であったが、その判断は少しばかり遅かった。もしくは、敢えてそこまで口にしたのかもしれない。
諸葛亮自身は素直に褒めたつもりなのかもしれないが、やれ美しいだの舞の様だの胡蝶だの可憐だの華だの。と、まるで少女を褒め称えるかのように可愛らしい言葉で賞賛を注がれた姜維は既に硬直し、頬どころか耳まで真っ赤に紅潮させていたのだ。しかもその称賛の全てが、一騎討ちで打ち負かした筈の老将・趙雲の口から出たものだというのだから、実に信じがたい。
馬鹿にされている、と激昂しても文句は言えない状況だが、姜維が怒りを覚えている様子はない。その代わりに、彼が羞恥を感じているのは、誰の目にも明らかであった。
「――さて、姜伯約殿、尹洪亮殿、梁芳孝殿。我が軍に降っていただけるという言葉は、信じても宜しいですね」
そんな憐れな一人の少年を尻目に、諸葛亮はいたって穏やかな声色のまま三人にそう問いかける。しかし、姜維はその雰囲気から、真の意味の穏やかさなど全く感じることが出来なかった。何もかも見通すかのような鋭い視線が、まるで「逃がさない」とでも言わんばかりに三人を射抜いていたのだ。
そこで、姜維は確信する。目の前の男は、間違いなく自分を引き抜く為に策謀を巡らせた人間と同一人物である、と。
「は、はい。此方も見殺しにされかけた伯約を救う為に、太守を見限って来た身。言葉に、嘘偽りはございません」
「右に同じく」
「……私も、同じです。この身、如何様にもお使いください……」
それには、友人二人も気付いていたようである。恐る恐る声を上げた尹賞と梁緒に続き、すっかり意気消沈した姜維も首を縦に振る。そもそも、投降するために梁緒に危ない橋を渡ってもらっていたのだ。ここに来て、姜維が嘘を吐く理由などない。
「そう心配なさらずとも、悪いようにはしませんよ」
そんな三人の様子を満足げに見届けた諸葛亮は礼を口にすると、背後に控えていた若い三人の将を呼びつけ、将達にその場を任せて颯爽とその場を去っていった。
取り残された六人の中で真っ先に動き出したのは、諸葛亮に呼ばれた三人の将の中でも比較的小柄で長髪の少年。彼は一切の迷いなく姜維の元に歩み寄ると、人好きのする笑みを見せ軽く拱手する。
「初めまして、姜伯約殿。僕は関維之です。まずは、天幕に案内しますね」
「ありがとうございます……宜しくお願い致します、維之殿」
その少年からは諸葛亮の様な複雑怪奇な性質を感じられなかったからか、姜維は無意識の内に肩の力を抜いていた。ふと視線をずらせば、友人二人も先程よりは緊張が解けているように見受けられる。
魏でも天才と名高い諸葛亮の纏う空気は独特であり、油断すると飲み込まれてしまうのではないかという恐怖すら感じるものだった。そんな別次元の生き物と相対してしまった若い三人は、敵国へ投降するという異常事態も併せすっかり気疲れしてしまっていた。だが、そこに現れたのが人好きのする少年と気さくな青年、典型的な真面目な青年ときたものだから、つい安心してしまったのだろう。
関索に導かれるまま一張りの天幕へ案内されて漸く、姜維はほんの僅かばかり落ち着いて冷静に物事を考えられるほどの余裕を持てたのだった。
「僕達は明日から、冀県へ軍を進める予定になっています。そこで、天水の地理に詳しい伯約殿には、あの辺りの情報提供をお願いしたいんです」
「情報提供……ですか」
「ええ。不要な血を流さない為にも、どんな情報でも欲しいんです」
現在の蜀軍の近況を説明されながら、姜維は天幕の中で大人しく椅子に腰掛けていた。簡易卓を挟み向かいに腰掛ける関索から蜀軍が自分の故郷へ攻め入る予定であると聞き、覚悟を決めていた姜維も流石に眉を顰める。
しかし、関索が言うにはこれまでに民間人への危害は一切加えておらず、力尽くで制圧するつもりはないらしい。そして、その為に姜維の協力が必要なのだと懇切丁寧に説かれた為、最後には首を縦に振る。姜維の唯一の気掛かりである彼の母について、冀県に到着次第蜀軍が保護すると関索は語気強く約束したことも、姜維を後押ししていた。
「しかし……こんなに若い少年を策謀で引き入れるなんて、丞相も人が悪いなぁ」
遠慮がちでありながらも、その視線はしっかりと姜維の全貌を確かめるかのように向けられていた。形だけの遠慮と好奇心丸出しの視線に居心地の悪さを感じながらも口を出せずにいた姜維であったが、諸葛亮の采配に僅かでも疑問を抱く者が居る事には安堵する。諸葛亮の様な感性の人間ばかりであったら、今後心穏やかに生きていける自信がなかったからである。
「そうだ。伯約殿、年はおいくつですか?」
「……今年で十六、です」
「あ、なら僕のひとつ下なんですね。僕は十七なんですよ」
姜維の様子に気付いているのかいないのか、他愛もない世間話を口にしながら飲み水を渡す関索の様子は、どこまでも穏やかで無邪気でもあった。水どころか軽食まで出してきた関索は、姜維の天幕だというのに既に寛ぐ気のようだ。
「こんなに年が近い方は、親類以外では初めてです。是非、仲良くしてくださいね」
「は、はい」
後に己の義兄弟になる青年の距離感の近さに違和感を覚えながらも、蜀の人間が皆関索の様なのであれば、この空気に慣れなければいけない。と、姜維はぎこちない反応ながらも、差し出された食事に口を付けたのだった。




