三章 二
夏侯覇が突然頭を下げたため尹賞と梁緒の二人は勿論、関索までもが呆気に取られていたが、誰一人として夏侯覇を咎めることはなかった。
「お気になさらずに」
「そうそう。あれは、なんていうか……色々と運が悪かっただけっすよ」
それどころか、あれが身内という事実が気の毒でならない――とばかりに、慰められる始末である。実際にその場にいたわけではない夏侯覇では戦の詳細な顛末は分かりはしないのだが、尹賞と梁緒の反応からどれ程酷いものであったのかは容易に想像がついた。
もっとも、酷いのは従兄弟の夏侯楙とその配下の一名のみなのだろうが。
「ま、馬遵も伯約に任せてれば良かったのにって、今もたまに思うっすけどね」
「芳孝」
「いってぇ!? なにするんすか洪亮殿……!!」
再び、尹賞の拳が梁緒の頭に落とされた。あまりに鈍い音をたてていたため夏侯覇は怪我の心配をしたが、梁緒は痛みで蹲りながらも文句を口にする元気はあったようである。案外丈夫なのだろう。
ふと関索を見れば、男兄弟故に見慣れた光景なのか、「あるある」とでも言いたげに深く何度も頷いていた。
「当時の伯約殿は、まだ子供といっても過言はない若さの筈ですよね……? 伯約殿の知略は当時から人並み以上だったとは聞いていますが、彼に任せてどうにかなるような状況だったんですか?」
「当然っすよ! 当時の天水じゃ伯約に並ぶ知略を持つ人間なんていなかったんで、絶対勝てたっすね」
「うんうん、丞相も舌を巻いていましたもん。だから、絶対に手に入れるぞって燃え上がっちゃったみたいですけど」
蜀が天水に攻め入った頃、姜維は未だ十代の少年であったと聞いていた。故に、そんな子供に一任して打開できるような戦であったのか、それほどまで姜維が天才児であったのか。夏侯覇はそこが気になって仕方なかった。
そんな夏侯覇の疑問に対し、似たような気質なのか似たような性癖なのか。梁緒と関索は同じように腕を組み、満足げに笑みを浮かべながら口々に姜維を褒め称えるが、姜維が賞賛されればされるほど諸葛亮に引き抜かれてしまうのだと分かると、顔を見合わせながら「それ本当すか?」「本当っす」などと気の抜けた言葉を交わすのだった。
「知略もですが、当時から武勇も抜きんでていたんですよ。趙子龍殿との一騎討ちでも、勝つほどなので」
「一騎討ち? 伯約殿と、あの趙子龍が?」
「はい、あの趙子龍です」
趙雲、字は子龍。劉備がまだ各地を転々としていた頃から、劉備に遣えていた人物である。一身之胆と称されるほど豪胆な将であり、赤子の劉禅を魏の大群から単身救い出した英雄としても名高い。
そんな彼は、諸葛亮の行った最初の北伐の頃までは存命しており、老将となっても尚、前線で軍を率いていたのだ。いくら老将と言えど、並の将では一騎打ちで軽々と討ち取られていたというのだから、当時十代の少年であった姜維がそれに打ち勝つなど到底信じられる話ではない。
しかし、それを語った尹賞は嘘を吐いているようにも見えず、関索と梁緒もそれに異議を唱えないため、事実であると認めざるを得ないのであった。
「なんと……敵対していた頃、彼に勝てなかったのも当然ですね……」
夏侯覇と姜維は、敵対していた頃何度か刃を交えている。しかし、夏侯覇が優位に立てたことは一度としてなかったのだ。仲間として接すると物静かな性格のため忘れがちだが、姜維は蜀屈指の勇将である。現在の蜀で、武力で彼と並び立つ者はいても、敵う者は存在しないと言ってもいい。
そんな男を何度も相手取って無事生還しているのだから、寧ろ喜ぶべきところであるのだろうが、流石に武人としての矜持があるため夏侯覇も素直には喜べなかった。
「夏侯将軍は弓馬の名手ではありませんか。接近戦が得意な伯約とは、そもそも土俵が違うのでは?」
「む…………それを言われたら、反論のしようがありませんね……」
「弓馬の腕なら、流石の伯約も貴方には敵いませんよ」
夏侯覇も姜維も武芸は一通り人並み以上にこなせるが、尹賞の言う通り得意分野は異なる。元々魏の将である尹賞は、夏侯覇の評判もよく聞いていたのだろう。重鎮相手に気を遣ったのだろうが、それでも多少単純なところがある夏侯覇は納得したのであった。
「伯約に対抗意識でもあるんすか?」
「いえ、対抗意識と言いますか……うーん、なんと言えばいいのか。彼の副将になった以上、彼に負けるわけにはいけないなぁ……と、思いまして」
「ふ、副将? 車騎将軍である貴方が、ですか?」
夏侯覇が成都を立つ前夜の事であった。追加で届けられた費禕の書状を持った姜維が、血相を変えて夏侯覇の邸に駆け込んできたのだが、その内容がこの人事についてだったのだ。
衛将軍と車騎将軍は立場で言えば同等であり、他の将兵を指揮する立場でもある。そのため、どちらかの下にどちらかがつく、という状況は通常起こり得ない。確かに姜維は録尚書事も兼任しており、総合的に見れば夏侯覇よりは上の立場にあたるが、それでも異例の人事には違いなかった。故に、姜維は時間を忘れてしまう程驚いて夏侯覇の元に駆け付けたのだが、夏侯覇は夏侯覇で驚きを隠せず、互いに気を遣って十分に睡眠時間を取れない程に気を揉んだのだった。
そんな人事を、他の面々が冷静に受け止められる筈もない。先んじて聞いていた関索はともかく、尹賞と梁緒は顔を見合わせて言葉を失ってしまう。
「そ、そりゃあ……伯約も荷が重いだろうなぁ……」
「ううん……私も、彼に負担を掛けたい訳ではないんですが……」
いくら姜維と夏侯覇の立場でも、大将軍の費禕の決定をそう簡単に覆すことは出来ない。そもそも費禕が考えなしにそういった人事をするとは思えず、何故こんな事になっているのかと、夏侯覇も困惑するばかりであった。
「ところで、その人事は一体どなたが決められたんですか?」
「費将軍です」
「ああ、やはり費将軍ですか……」
「費将軍、伯約と仲は良いんすけど、ちょっと伯約で遊んでる感じあるっすよね」
梁緒は歯に衣を着せない性格のようであるが、彼の考えには夏侯覇も概ね賛同であった。
これといって理不尽な指示を出したり、意味のない仕事をさせるような事はないようだが、費禕の姜維に対する扱いは多感な子供をあしらうような態度にも見受けられる。姜維のように冷静に受け止められる性格でなければ、怒りを覚えることも少なくはないのではないかとも思うのだが、奇跡的に二人の仲は良好であった。
「なに、俺は伯約を信頼しているだけさ」
「ひ、費将軍……!」
部屋の前でたむろしていた夏侯覇達の背後から現れたのは、現在姜維の報告を受けている筈の費禕であった。姜維が報告に行った時間から然程経っていない為、恐らく二人は会っていないのではないだろうか。その疑問をぶつければ、「これは、どやされるな……」と、費禕は言葉の割に焦った様子もなく無精髭を撫でるのであった。
「信頼している、とは?」
「伯約なら魏からの帰順組としての視点があり、且つ仲権殿と立場も同等。本人は否定しているが、人の上に立ち指導する事も得意──と、どこを取っても良い事しかない。信頼するのは当然だろう?」
「でも、伯約は若過ぎるんじゃないすか?」
「その程度は些事だな。新参は勿論、伯約の指導や指示に文句をつける古参も今となってはほぼ居ない。あの他人を滅多に褒めない伯苗殿でさえ伯約の事は高く評価しているんだから、どれ程か分かるだろう?」
姜維とは天水からの長い付き合いである二人の問いに対し、費禕は理路整然とそう答える。しかし、伯苗という人物の評については素直に受け止めることは出来ないようで、揃って首を捻るのであった。
「そんな話、聞いたことないっすよ……?」
「そりゃまあ、あの人は仕事以外では滅多に他人とは喋らんしな」
「あの激辛評価の伯苗殿まで評価してくださるなんて……やっぱり伯約は凄いんですね!」
懐疑的な二人をよそに、費禕の言葉に深く頷き続けていた関索は急に顔を輝かせる。伯苗とは、蜀の文武官の中でも古参の人物・鄧芝の事であった。彼は武官としても文官としても大変優秀な人物ではあるのだが、それ以上に大変偏屈な人物であり、他人を褒めることは滅多にないらしい。
そんな人物のお眼鏡にかなった貴重な人間が姜維だというのだから、義兄の関索がはしゃぐのも無理はなかった。
「これで納得してもらえたかな?」
義兄が大はしゃぎしている以上、事実として受け入れる他ないのだろう。尹賞と梁緒は渋々納得したが、姜維と夏侯覇の人事については素直には受け止められないらしく、難しい顔で唸り続けるのであった。
「伯約が評価されてんなら、納得するしかないっすけど……うーん……」
「お二人は、伯約殿と仲が良いのですね」
「天水の頃からよくつるんでたんで、友達っすよ」
特に気張る事もなくそう答える梁緒に、夏侯覇はほんの少しばかり感動してしまった。あの姜維にもちゃんと友人がいたのか、と自分の事のように嬉しくなったのだ。が、それはおかしい。関兄弟や張兄弟とも親密であり、王平や馬岱とも年齢的には離れてはいるものの私語を口にするほどには親しい姜維に友人がいるなど、今更おかしな話でもない。
最近はなかった妙な違和感にもやもやと思考を邪魔されながら、しかしそれを口にする必要性も感じられず、夏侯覇はそれを思考の隅に追いやったのであった。
「……なるほど。お二人が天水制圧時ではなく、伯約殿が降伏された際に共に蜀に帰順されたのも、そのあたりに関係が?」
「まあ、近からず……遠からず……?」
「色々あって後がなくなった、と言いましょうか……少々、長い話になりますが――」
夏侯覇らを見渡し、長話をしても問題のない雰囲気であると感じ取ったのか、尹賞は思い出すように視線を空に向けながら口を開いた。




