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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
三章
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三章 一

 成都から約六日程かけて、一行は漢中に辿り着いた。

 夏侯覇にとっては姜維に拾われて以来、実に三ヶ月ぶりとなる漢中であった。だが、何か大きく変わることがあるわけでもなく、発ったその日から何も変わらず、その町は軍事要塞としてそびえ立っていたのだった。


「私は報告に行ってきます。兄上は、ここの案内をお願いしますね」

「分かったよ、行ってらっしゃい」


 やけに素直な関索に違和感を抱きながら揃って姜維を見送り、漢中の将軍府前に二人で残されると、関索は将軍用の宿舎へ案内すると言って悠々と歩を進める。

 慌ててその後を追いながらも、これまでの駄々のこねっぷりからは想像もつかない大人しい態度に、夏侯覇は思わず疑問が口をついて出てしまうのを抑えられなかった。


「……伯約殿と一緒に行かなくて、大丈夫なんですか?」

「はい。ここまで来れば、ちょっとぐらい離れても大丈夫です」


 信じがたいことに、関索のあの異常なまでの姜維への執着は、共に漢中に来れたことですっかり落ち着いてしまっていたのだ。

 今までの彼と比べるとその温度差にも驚くが、何故血を分けた実の兄に対しては同じように執着が芽生えないのか、とも考える。関索の生い立ちを考えれば不自然極まりないその態度は、ここ数ヶ月の接触で大きな疑問として夏侯覇の好奇心を刺激していた。


「伯約殿の事は随分と気にかけているようですが、安国殿と離れるのは不安じゃないんですか?」

「うーん……興兄は成都に居るから比較的安全ですが、伯約は将軍だからあちこちに行かなければいけませんし、常に危険が伴うでしょう? 僕が見ていない間に、伯約に何かあったら嫌なんです」

「ああ、なるほど」

「それに、興兄には苞兄(ほうにい)と紹もついてますしね」


 関家と張家は、彼らの父の頃から家族ぐるみの付き合いをしている。更に、張苞と関興は子供の頃から義兄弟でもあるため、関索は彼らに兄を任せ義弟である姜維に集中することができるのだ。

 その結果があの過保護と執着だと思うと、それが良いのか悪いのかの判断は夏侯覇には出来かねたが、本人達さえ良ければ良いのだろう。と、思考を放棄することで、無事疑問を解消したのであった。


「……やっぱり、僕っておかしいと思いますか?」

「へ? え、いや……おかしいとまでは……」


 まさか本人に自覚があったとは思いもよらず、夏侯覇は気の利いた言葉一つ掛ける事ができなかった。姜維に対する関索の態度は、“兄馬鹿”と称しても差し支えない。その執着具合は控えめに言って異常であるし、度を越していると誰もが思っているだろう。

 しかし、いくら窘める事があっても、「止めろ」とは誰も言わないのだ。最も被害に遭っている姜維でさえ、困っている素振りは見せても、嫌がることはない。兄や幼馴染の二人に比べると、関索の立場は決して高くはないにもかかわらず身内の誰もが止めないのであれば、皆が皆、関索の兄馬鹿を良いものとして認めているのではないだろうか。


「伯約に嫌われてないかなぁ……」

「……それは大丈夫だと思いますよ」


 とはいえ、そんなに不安なら少しは抑えればいいのではないか。そう思わずにはいられない夏侯覇であった。


 そんな問答を繰り返している間に宿舎に辿り着いた夏侯覇は、関索に案内されるがまま施設内を見て回っていた。以前滞在した際は監視の目的もあり将軍府内に滞在していたが、やはり将軍用に用意されているだけあって宿舎の方が室内が広いようである。


「あー!」

「え?」


 可もなく不可もなく、といった宿舎内の広さと内装を見て回り一度廊下に出たところ、夏侯覇に向けたと思われる大声がその場に響いたのだった。


「もしかして、夏侯将軍じゃないっすか!?」


 廊下は池を囲っており、夏侯覇が案内された部屋と同じ造りの扉が池の向こうにいくつか見えるため、他の個室も池を囲むように配置されているのだろう。しかし、今は昼前。いくら大声を上げようと演習等で空けているのか他の部屋から誰かが出てくることはなかったが、流石に名指しで呼ばれた夏侯覇は気にしないわけにもいかなかった。

 夏侯覇達の出てきた部屋から池を挟み、斜め向かいの部屋から興奮した様子で身を乗り出しながら声を上げていたのは、いかにも活発そうな威勢の良い若い男。だが、彼の背後から出てきた別の男に思い切り頭に拳を叩きこまれ、その場に蹲ってしまったのだった。


「確かに私は夏侯ですが、貴方がたは……?」

「……突然失礼しました。私は、伯約と共に蜀に帰順した尹洪亮(いんこうりょう)と申します」

「お、同じく天水から来た、梁芳孝(りょうほうこう)っす……」


 尹賞(いんしょう)梁緒(りょうしょ)は、どちらも天水が蜀に制圧された際に蜀に帰順した人物である。現在は漢中で費禕の部下として政務に勤しむ文官であり、姜維と共に戦にも出る武官でもあった。

 しかし、夏侯覇は別の視点で既に、彼らの存在を知っていた。


「ああ、お二人が……初めまして。私は夏侯仲権です」

「あれ……? 俺らのこと、知ってるんすか?」

「それはまあ……その節は、うちの従兄弟が大変ご迷惑をお掛けしました」


 夏侯覇の従兄弟に、夏侯楙(かこうぼう)という人物がいる。彼は夏侯覇の伯父である夏侯惇の息子であり、尹賞や梁緒らが守っていた天水を含む涼州一帯に蜀が攻め入った北伐において、総大将として指揮を執っていたのである。

 しかし、夏侯楙は武略に欠ける上、自信家で臆病者であった。戦が始まって間もなく、総大将であるにもかかわらず蜀に捕らえられ、策に嵌められ、涼州を取られる原因を作りに作って、最後は部下と共に西涼に逃げてしまったのだ。

 今目の前に居る二人や、姜維が祖国を離れなければいけなくなってしまった原因の一端が己の一族にあると知っている以上、夏侯覇の腰が低くなるのは至極当然の事であった。

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