二章 八
「漢中……ですか?」
「ええ。私は、戻らなければいけないのです」
ある日の事だった。執務室に呼び出された夏侯覇は、政務の引き継ぎの資料を纏める姜維の元に訪れていた。
漢中は防衛の最前線。戦における本拠地は成都でも狄道でもなく、漢中なのである。また、軍の総司令官は費禕ではあるが、実際の現場指揮は姜維が行っている。そのため、彼が現場に戻らないわけにはいかないのだ。
「先日の宴で貴方も随分と馴染めたようですので、そろそろ頃合いかと思いまして」
元々、夏侯覇の世話という名目で姜維は成都に滞在していた。亡命から三ヶ月ほど経ち、夏侯覇の生活も安定し軍に馴染めたことで手が離れたと判断したのだろう。いい年をして、いつまでもつきっきりで姜維に面倒を見てもらうわけにもいかないため、夏侯覇としても特に文句はなかった。
世話になった礼を何かで返さなくては――そう考えていた夏侯覇の思考を遮るように、姜維は更に言葉を続ける。
「――と、ここまでは良かったのですが……」
「なにか問題が?」
珍しく歯切れ悪く言葉を切る姜維に夏侯覇はつい身構えてしまうが、姜維は苦笑を浮かべながら書簡を広げた為、そこまで深刻な状況でないことは見て取れた。
「貴方も漢中に行くように、と、命が出ています」
「私……ですか?」
「貴方の弓馬の腕を見込んで、漢中の騎馬兵を鍛えてほしい……と、文偉殿が熱望されまして」
蜀の騎馬兵の鍛錬は主に馬岱と姜維が行っていたが、弓馬の腕となると二人は夏侯覇に劣る。そのため、兵力の増強にと、費禕は夏侯覇の能力を欲していたのだった。
それを聞いた夏侯覇は、思わず口元が緩むのを抑えきれなかった。
「そういうことでしたら、喜んで」
「良いのですか……? 親交を深めた武官の皆さんや、子昂殿、仲文殿、安国殿は成都に残るので、無理をなさらなくてもいいのですよ……?」
「私は武人ですので」
姜維の立場なら、費禕の命を取り下げることも不可能ではない為、気を遣ったのだろう。
しかし、根っからの武人である夏侯覇としては、戦力として宛てにされること、その技量を見込まれて指導を頼まれることは喜ばしい事でしかない。世話になっていることを差し引いても、断る理由はないのだ。
「では、よろしくお願いします。成都ほど濃い人も居ないので、物足りないかもしれませんが」
「大丈夫。十分、濃いですよ」
ふっと肩の力を抜いた姜維は安心したように笑みを浮かべたが、視線を外さずに夏侯覇がそう口走った言葉にほんの僅かに眉を顰める。
夏侯覇も流石に失言だったと慌てたものの、先日の宴の様子を思い出し、笑いながら視線を逸らすことで誤魔化すしかなかった。
「伯約ー! 話って何ー?」
「……兄上、静かに入ってきてください」
そんな空気を壊すように騒々しく執務室に飛び込んできたのは、夏侯覇が知る限り、現在の蜀で最も騒々しい男、関索である。
当然、関索を呼び出していたもの姜維であり、姜維が漢中に戻る旨を説明された関索であったが、夏侯覇とは異なり関索には特に命は出ていないようであった。関索がどのような理由で成都に戻ってきていたのかは不明だが、もう暫くは成都に滞在していても問題ない、という事なのだろう。
「僕も行くよ」
しかし、関索は真っ直ぐな瞳で真っ直ぐに姜維を見据え、想像通りの言葉を口にしていたのだった。
「兄上は戻ってきたばかりではありませんか。もう少し、ご家族でゆっくりなさってはいかがですか?」
「伯約が戻るなら、僕も戻る……!」
「分かりました、一緒に行きますから……いい大人が、こんな事で泣かないでくださいよ……」
ここまでくると、最早天晴と言わざるを得ない。姜維が作業を続けていた卓に縋りつき涙を滲ませるその姿に、南中を蹂躙した猛将の威厳はどこにもなかった。
「だって、漢中で僕のこと置いていったんだもん……!」
「……留守を任せられる方が、兄上しかいなかったのです。仕方ないのですよ」
「うううう」
「唸らないでください……」
関索は、漢中を離れる時も駄々をこねていたが、今回はそれに比べればまだ可愛い方である。そんな男を尻目に、連れて行って大丈夫なのか、と互いに聞こえる程度の小声で姜維に確認を取ってみたものの、費禕は予めこうなることを見越していたらしく、「関索が駄々をこねたら連れて来ていい」と書簡にも書かれていると姜維は告げるのだった。
そんないい加減な対応でいいのかと突っ込みたくもなるのだが、現在の関索はどこかの守備に就いていたり、遠征に出たり、といった大きな任務がない為、ある程度は許容されているようである。
「伯約、今時間いいか?」
「はい、どうぞ」
関索の声が外まで響いていたのだろう。敢えて少し大きめに上げられた声が室内に届くと、泣いていた関索は部屋の隅に移動しその場を空ける。どうやら政務で訪れたらしいその声の主は、両手に竹簡を山の様に抱えた関興であった。
忘れがちだが、彼は皇帝の相談役である侍中の地位に就いている。基本的には戦場に出ることのない立場の人間ではあるが、それに加えて将軍位も持っている為、武人としても表に出ている人物なのだ。とはいえ、普段は侍中の職務に専念しており、成都に滞在している姜維の元に仕事を運んでくることも一度や二度ではない。今回訪れたのも、その仕事の一環なのであった。
「……索、お前またなのか……」
「興兄……いたっ!」
「いい年なんだから、あんまり伯約を困らせんなよー?」
姜維と夏侯覇が竹簡を受け取っている間に部屋の隅でぐずる実弟を発見した関興は、すっかり手ぶらになったことを確認するとその弟を思い切り小突き、兄らしく説教を始める。こういうところが、本物の兄である関興と、末っ子でありながら兄になりたい関索の違いなのだろう。
故郷に残してきた自身の弟達を思い出し、夏侯覇は思わず感慨に浸るのであった。
「っていうか……文句なら、おれの方が色々とあるんだけど」
「な、なんですか……?」
「おれも宴会したかった!」
前言撤回しよう。関興も上に兄がいる次男、つまり弟である。しっかりしているところもあるが、彼は次男特有の自由奔放さを存分に発揮している男だ。ただ、関索よりしっかりしているように見えるだけなのである。流石の関索も驚いたのか、突然声を荒げた実の兄を見上げて口を開いたまま言葉を失っている。
敢えて会話に混ざることを止めた夏侯覇は、自由過ぎる二人と巻き込まれた姜維の様子を黙って眺めていることに決めるのだった。
「そちらに用事があったのですから、仕方がないではありませんか」
「だってさー 陛下、なかなか止めてくれなくてさー」
「……あの日は、侍中の皆さんで何をされていたのですか? 全員が手を離せないなど、相当な大事だったのだとは思いますが……」
今の今まで夏侯覇は忘れていたが、確かに二ヶ月程前の宴には祭り好きにもかかわらず関興が参加していなかった。張苞などは「落ち着いて食事ができる」と喜んでいたが、侍中の関興が夜間まで手が離せない用事というものも気にはなるものだ。
しかも、四人の侍中が総動員されたとあっては、姜維が大事ではないかと勘繰ってしまうのも無理はないだろう。
「陛下の稽古」
「…………え?」
夏侯覇は耳を疑った。
侍中が皇帝の稽古をつけているなど、これまでに聞いたことがない。そもそも、あの覇気のない眠そうな少年皇帝が、武芸の稽古を受けているなど、まるで想像もつかなかったのだ。
「それは仲文殿のお仕事では……?」
「たまーに、おれらもやってるんだよ。ま、それ自体はいいんだけどさ……この間は、陛下が尋常じゃなくやる気出しちゃって」
「それで夜まで……?」
しかし、この国では珍しい事ではないようだ。現に姜維も、侍中が稽古をつけていた事ではなく、張紹以外の侍中達も稽古をつけていた事に驚いているのだから、これがこの国では常識としてまかり通っているという証拠になるというものだ。
関索に至っては、「休昭殿と演長殿がお疲れだったのは、それが原因でしたか」などと、的の外れた感想を口にしている始末である。
「それも深夜まで」
「深夜まで……!?」
「宴会したかった!」
大の男が頬を膨らませ地団駄を踏む姿は、とても可愛いとは言えそうにもない。しかし関興は、それら全てを今夏侯覇達の目の前で実践して見せたのだ。
酷いものを見てしまった、と気を遠くする夏侯覇に気付かない姜維と関索は、ただただ目の前の癖毛の男を労わるのだった。




