二章 七
宴当日。夕刻頃から、場内の広間を使って開かれたその宴は、数年ぶりの無礼講ともあり、大いに賑わっていた。
「──で、こうなるのですか」
「す、すみません……伯瞻どの、酒豪……なんですね…………」
酒が入り気分の良い武官の面々と思いの外盛り上がり、調子に乗って飲み比べをしていた夏侯覇であったが、馬岱と飲み比べたところ、全く敵わず酔わされてしまったのである。
すっかり酔い潰されて横になっている夏侯覇に向けて扇を仰ぎながら、姜維は軽く頭を抱えた。ある程度は予想していたとはいえ、調子に乗って飲み過ぎた夏侯覇にも、全く加減しない馬岱にも、どんな言葉をかけてやろうかと悩んでいたのだ。
「うん。まさか潰れるとは」
「伯瞻殿……」
馬岱は、まるで想定外だと言わんばかりにそう呟き酒を飲み続けていたが、彼がわざと夏侯覇を酔い潰したことは姜維も理解していた。飲み比べをする事自体が、馬岱にとっては最大限の歓迎の意なのだ。
もっとも、その飲酒量が規格外の為、夏侯覇のように潰されてしまう者が後を絶たないことは、宴では殆ど素面で通す姜維にとっては頭痛の種であったのだが。
「進んでないな。伯約は、もう飲まないのか」
「私はあまり……」
「そうか。飲め」
「……話を聞いていますか?」
姜維と馬岱は卓を挟み向かい合っていたが、おもむろに馬岱が席を移動し、逃げ道を塞ぐように姜維の右隣に腰を下ろす。左隣には夏侯覇が寝転んでいる上、その先には壁が待ち構えている為、馬岱の思惑通り姜維は逃げ場を失ったのであった。
そして、そんな哀れな男に迫り来るのが大先輩の酒の勧めとあっては、どんなに意地を張ろうと拒否は出来ない。姜維には、諦めて酒を飲む以外の選択肢は残されていないのである。
「大丈夫。この酒は、強くはない」
「……少しだけですよ」
渋々、馬岱が注いだ酒に口を付ける姜維であった。
一方で、その一連の流れを、横になったまま夏侯覇は酔った頭で聞き流していた。酒を飲まされながらも姜維は律儀に扇を仰いでいたが、次第に夏侯覇へ届く風が減ってきたことから、あの姜維であっても酔いには敵わなかったのだろうと察することが出来る。
思い返せば、夏侯覇は姜維が酔った姿を目にしたことがなかった。何度か夏侯覇の邸で酒を飲むことはあったが、飲むのは決まって夏侯覇と関興、張紹の三人ばかりであり、姜維と張苞は酒を一切口にしなかったのだ。
そんなことを思い出しながら、宴の喧噪をどこか遠くで聞いているような浮遊感と現実味の無さに包まれ、妙な心地良さを得る夏侯覇であった。
「なんだ、飲めるじゃないか」
「飲めないとは、言ってません……とても飲めますが、あまり飲むと記憶をなくすので、飲みたくないのです」
笑いを堪えるような馬岱の声でふと見上げてみれば、言われるがまま酒を飲まされた姜維は顔が赤く目も据わっており、誰が見ても分かるほど酔っていた。とはいえ、言葉選びだけはいつもの彼のままのため、辛うじて理性までは飛んでいないのだろう。
「安心しろ。伯約の痴態は、自分が覚えておく」
「嫌ですー!」
しかし、子供のように首を振るその幼稚な挙動のせいで、普段のなけなしの威厳は全て消し飛んでいたのだった。
「おーやってるやってる」
「ん、文偉殿」
「よくここまで飲ませたな、かなり抵抗しただろう?」
先刻まで馬岱が座っていた席に着いたのは、諸将への挨拶回りを終えた費禕であった。姜維が酔ったことを知って、茶化す為にわざわざこの席に着いたのだろう。馬岱の酌から逃れようとする部下の姿を肴にしながら酒を飲み始めたのだから、物好きも良いところだと言わざるを得ない。
「強いのを騙して飲ませたら、楽勝だった」
「俺では使えない手か……策士だな、伯瞻殿」
それほどでも。と答え、人差し指と中指を立てながら満足げに鼻を鳴らす馬岱は、見た目の幼さも相まって悪戯を成功させた子供のようである。
隣の同僚に、無理やり酌をしていなければ。の話だが。
「はなしてください、伯瞻殿……! わたしはもう飲みませ──うっ!?」
完全に酔っているにもかかわらず、理性的に馬岱の酒を拒否していた姜維と馬岱の間から勢いよく呼びかかってきた何者かにより、姜維とその人物は部屋の端まで吹っ飛んでしまう。
運良く食器や他の人間は巻き込まなかったが、勢いに押し負け倒れ込んでしまった姜維の上に乗ったその人物は、そんな体勢のまま犬でも可愛がるかのように姜維の頭を撫で回していた。
「よしよし、大声出してどうしたの~? 伯約のお兄ちゃんが来たよ~」
「…………兄上、重い……」
犯人は、気味が悪いほどに上機嫌な、姜維の義兄・関索であった。彼は酔って理性を失ってしまったのか普段以上に鬱陶しい生き物へと変わり果てており、姜維に乗ったまま思い切り抱き締めている。
いくら関索が細身且つ優男風の見た目をしているとはいえ、武人である以上、その筋肉量は常人の比ではない。加えて、現在関索の下敷きになっている姜維は、関索にほんの僅かながら体格が劣るのだ。そんな義兄に乗られた姜維は、当然ながら身動きがほとんど取れない状況に追い込まれていたのだった。
「お兄ちゃんでしょー?」
「……お、お兄ちゃん」
「いい! 今の、もう一回言って!」
普段は涼しい顔で流している関索の過剰な接触も、酔っているせいなのか今の姜維は人並みに引いており、顔にもしっかり出ている。どうやら姜維も本心では、関索の異常なまでの距離感の近さを問題視しているようである。
だが、関索はそれを全く意に介せず、むしろ普段より素っ気ない姜維の反応に喜んでいる始末なのだから手に負えない。
「……あっちは、飲ませたのか?」
「いや。飲んでるが、ほぼ素面」
「素面か……」
実は、この宴において関索が飲んだ酒の量は雀の涙ほどであり、特別酒に弱い訳でもない彼は一切酔っていない。つまり関索は、酔った周囲の雰囲気に乗じ羽目を外しているだけなのである。
横になったまま費禕と馬岱の話を聞いていた夏侯覇は、義弟に物理的に押しのけられても笑顔を崩さない関索を視界に入れてしまい、思わず身震いするのであった。
「…………凄い事になってますね……」
「お、気が付いたか。水でも飲むか?」
「はい……いただきます……」
逃げるように起き上がった夏侯覇は壮絶に縺れる二人から即座に距離を取り、絡まれないよう背を向けて馬岱と費禕の会話に混ざる事で保身に走った。もし姜維が素面であったら後日恨み言のひとつも言われるかもしれないが、幸いなことに既に彼は酔っており、本人の言を信じるなら記憶が残るかどうかも怪しい。
どうか今宵の出来事は忘れてくれ、と祈りながら、夏侯覇は渡された水を飲み下したのだった。
「あははは、みなさん楽しそうで嬉しいです」
そこに、この地獄絵図の様な状況を分かっているのか分かっていないのか、酒瓶を片手にへらへらと笑いながら現れたのは王平であった。どう見ても酒が入っているのは分かるのだが、彼は普段から糸目のためか、見た目からは酔いの程度がいまいち分からない。
「子均殿は、どのぐらい飲まれたんですか……?」
「はい、あれをすべて」
笑顔の王平が指差した先には、大の大人が入れそうな大きさの酒壷が三、四個は転がっており、夏侯覇は一瞬にして言葉を失った。思わず馬岱と目を合わせてしまったが、馬岱は馬岱で「子均殿は、元々酒豪」とだけ口にし、涼しい顔で軽く頷くのみだったため、愛想笑いすら浮かべられないのであった。
「しかし、今宵は随分と多いな。普段の倍はあるぞ」
「久々でしたから……楽しくて、つい飲み過ぎてしまいました」
「はは、それは良かった。しっかり飲み食いしていってくれ」
この宴が始まってから、諸将はしきりに“久々の宴であること”を、強調していた。
ここ数年――正確には諸葛亮が没してから長らく、こういった賑やかな宴が開かれていないことは夏侯覇も聞いてはいた。だが、ここまで誰も彼もが口にするという事は、小規模な宴さえろくに開かれていなかった可能性が捨てきれない。
一見分からないこの国の切迫した内情が垣間見えたのが、己を歓迎するための宴だったという事実は、正直なところ素直には喜べない。が、それでもこの国の一員として馴染むきっかけとなれば、と酔いが落ち着いてきた頭で夏侯覇は至極真面目に考え込むのであった。
「あ、まだ余裕がおありでしたら、文偉殿もご一緒にどうでしょう?」
「喜んで……だが、飲み比べなら伯瞻殿にしてくれよ?」
「大丈夫です、少し飲んで食べるだけですから」
「安心しろ、文偉殿。骨は拾ってやる」
すっかり気分が良くなっている王平に誘われ、費禕は料理が多く並べられている卓へ連行されていく。まだ死ぬ気はないんだが、などと珍しく覇気のない言葉を残し、その姿は屈強な諸将に埋もれて見えなくなったのだった。
「……さて。此方のお二人は、どうしましょうか」
夏侯覇達が目を離した隙に、騒々しい義兄弟達は取っ組み合いを始めていた。喧嘩とまではいかないが、酔って普段より理性が働かない姜維と、何故か雰囲気に乗じて酔っている素振りを見せる関索では穏便に済む筈もなく、既に言い争いにまで発展しているようである。
そんな子供の喧嘩の様な、幼稚なやり取りを目にしたからなのだろう。一度は逃げに走った夏侯覇でさえ、二人の様子を観察する野次馬根性の方が顔を出し始めてしまっていたのだった。
「暫くは様子を見よう。あの二人は放っておいても、その内落ち着く。多分」
「なるほど……では、お二人を肴に飲みましょうか」
「ん、まだいけるか。意外とやるな」
酒の相手が出来たことに満足げに口元を緩めた馬岱に、休めたおかげで酔いが醒めかけてきただけ、と、正直に口にすることは夏侯覇には出来なかった。
「伯瞻殿には遠く及びません……今後は、手加減していただきたいです」
「考えておく」
「──と言いながら、なみなみに注ぐのは何故なんでしょう」
「考えるだけだからな」
夏侯覇の杯に零れんばかりの酒を注ぎあっけらかんと答える馬岱は、夏侯覇が一杯飲み干すまでの間に三杯もの酒を飲み、遂には注ぐ動作すら億劫になったのか、酒瓶を抱え込んでしまったのだから、酒豪というより酒乱の方が近いのだろう。
表情と同じく、酔いすらも一切表に出ない事だけが、彼の奇妙奇天烈な人間性をそれらしく演出しているのだ。
「うーん、食えない方だ」
「よく言われる」
満を持して喧嘩を始めた姜維と関索を眺めながら、己の一回り以上は年長の顔色が変わらない男から程々に酌をされ、夏侯覇はそれなりに楽しい時間を過ごせたのであった。