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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
二章
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二章 六

「うーん…………うーん?」


 費禕が宴の参加者を募った日の翌日のことであった。

 早朝から鍛錬場に訪れた夏侯覇は、鍛錬場の小屋で唸りながら探し物をしている男を発見した。壮年期程度に見えるその男は、小屋に入ってきた夏侯覇に一切気付いていない様子で首を捻っており、探し物が難航しているように見える。


「……探し物ですか?」

「あ、はい。磨き布を失くしてしまって……って、仲権殿ではありませんか! おひさしぶりですね!」

「へ?」


 糸目のその男は困り果てた表情のまま夏侯覇に向き直ったが、夏侯覇の顔を視界に入れた途端見るからに機嫌を良くし、懐かしむように緊張感の欠片もない緩い笑みを見せた。が、毎度のことながら、記憶力に不安のある夏侯覇には見覚えのない人物である。

 (あざな)で呼ぶという事は以前も味方であったのだろうが、魏に居た頃にこんなに緩い人物が味方だった記憶はない。


「おや、さすがに分かりませんか。わたしですよ、王子均(おうしきん)です」

「………………はい!?」


 王平(おうへい)、字は子均。劉備が蜀漢という国を作り上げた頃、蜀と魏の戦の際に魏から蜀へ帰順した元魏の将である。その当時既に戦に出ていた夏侯覇もその存在は知っていたが、個人的な親交がなかったため会話どころか平時の様子すら知らない人物であった。

 更には、数年前に曹爽が起こした蜀征伐の際、蜀側の総大将として立ちはだかった相手でもある。それも、夏侯覇が先鋒として出陣し、危うく討たれかけた戦の総大将だ。

 当然、苦い記憶のひとつとして、王平の存在は夏侯覇の記憶に刻まれている筈なのだが――


「最後にお会いしたのは、五年ほど前でしたか」

「ま、待ってください……! ええと……本当に、王子均殿ですか……?」

「はい、本当に王子均です」

「…………戦場と、雰囲気が違い過ぎませんか?」


 夏侯覇が驚くのも無理はなかった。

 夏侯覇の記憶にある王平は、戦場で雄々しく声を上げ豪快な武勇を遺憾なく発揮しながら、一方では知略も人並み以上に長けており、まさに隙の無い勇将――という印象が非常に強い。味方であった頃も、敵であった頃も、その恐ろしい印象に変わりはなかった。

 それに加えて、魏時代の夏侯覇が頼りにしていた将軍の張郃(ちょうこう)を何度も退け、蜀に対しては無類の強さを誇った張郃が唯一勝つことが出来なかった相手が、何を隠そう、この王平なのだ。最早、夏侯覇から見れば畏怖の対象としても良いぐらいの存在であった。

 だが、今目の前に居る王平は、その記憶とはまるで別の生き物と化している。ただの気の抜けた、表情も気性も何もかも緩い優しそうなおっさんなのである。


「ああ! そういえば、戦場以外でお会いたことはなかったですもんね。恥ずかしながら、戦場に出ると、こう……昂ぶってしまいまして」

「た、昂る……ですか……」


 照れ臭さそうに顔を赤く染め指先で頬を掻く仕草は可愛げのある男だが、話の内容は全く可愛くないのであった。曰く、戦場に出ると興奮で気が昂ぶり、つい言動が荒々しくなってしまうのだという。

 しかし、つい(・・)で済まされるほど、可愛い変化ではない。あの王平とこの王平は別人だ、と言われた方が余程納得できるのである。もしかしたら本当に別人なのではないか。とも、考えてしまうほどだ。


「……そんな所で、何をしているんだ」


 大の男が二人、片方は満面の笑みで、片方は不自然に引きつった笑みという、珍妙な状況で立ち話をしている小屋の中を覗き込んできたのは、遠征帰りで休暇を貪っている筈の馬岱であった。

 ちなみにこの馬岱、当然王平よりも年長である。


「おはようございます、伯瞻殿。仲権殿と久し振りにお会いしたので、つい話に花が咲いてしまいました」

「花……?」

「は、花」


 小屋に入って来ながら「とてもそうは見えないが」と言わんばかりに怪訝な視線を夏侯覇に向ける馬岱と目を合わせ、ぎこちなく頷くことでなんとか己の心情を表現しようとする夏侯覇であった。それには馬岱も理解を示したらしく、夏侯覇に合わせるように深く頷いてみせる。


「……子均殿のそれ(・・)は、いずれ慣れる。そういうものだと思った方がいい」

「は、はあ……肝に命じておきます」


 などという非常に曖昧な助言を、夏侯覇のみに聞こえる程度の声量で口にしながら。


「あ、そうだ! 伯瞻殿、わたしの磨き布を見ていませんか?」

「いや……見ていない。見つけたら、部下に届けさせる」

「ありがとうございます、助かります!」


 馬岱とのやり取りと見ても、王平はただの丁寧で緩い男のままである。これは馬岱の言う通り、彼の特性に自分が慣れる以外にはどうしようもないのだろう。

 戦でしか出会わないこともあり、蜀の面々にはむやみやたらと生真面目で恐ろしい印象を抱いていた夏侯覇であったが、魏の人間と同じか、それ以上に個性的な人間で溢れていることを改めて実感しているのであった。


「じゃあ、また明日」

「あ、はい。お疲れ様です」


 気が済んだのか、馬岱は話し終えると、挨拶代わりに軽く手を上げながら踵を返す。

 休暇中である筈の馬岱の口から「明日」という言葉が出たことに驚くものの、その意味を問いただす暇もなく馬岱は小屋から出て行ってしまい、その場には夏侯覇と王平の二人が残されたのだった。


「……伯瞻殿って、落ち着いていらっしゃいますね」

「羨ましいですよね。わたしも、見習わなければ……!」

「ええ。彼のように胸を張って、常日頃生きていきたいものです」


 妙に居心地の悪い沈黙に耐えかねた夏侯覇は、王平に声を掛けたつもりだったのだが、あらぬ方向からその声に応える者が現れる。

 その聞き慣れた声につられるように小屋の引き戸に視線を向けると、夏侯覇の予想通りの人間が、開かれた戸の影からひょっこりと顔を出したのだった。


「は、伯約殿……いつからそこに」


 それは、執務室で激務に追われている筈の姜維であった。

 夏侯覇が彼とまともに会話をするのは、実に四日振りのことである。先週辺りは書庫の整理や棚の整理など、夏侯覇にも手伝えることがあったため積極的に手伝いを買って出ていた。だが、流石にここ数日の政務内容は頭脳面にやや不安のある夏侯覇では邪魔にしかならないことから、差し入れの持ち込みや様子を見に行く程度に留め、夏侯覇自身は他の武官達と交流を図っていたのだ。


「先程。珍しい御三方が揃っていたので、つい物陰から眺めてしまいました」

「そうでしたか! 仲権殿がこちらにいらっしゃってから、初めてお話ししたんですよ」

「なるほど……そういえば、慌ただしくて時間が取れていませんでしたね……」


 姜維は僅かに考える仕草を見せながら軽く頷くが、直ぐに表情を緩め、ご安心ください、と二人に向き直る。


「明日の夜、文偉殿が仲権殿のための宴を企画しているので、それも解消されると思いますよ」

「え……宴なんて、いいんですか?」

「あの人は、やると言ったら聞かないのです……諦めて参加してください」


 肩を落としそう苦笑を漏らす姜維を眺めながら、夏侯覇も思わず半笑いで応えてしまうのだった。だが、これで先刻の馬岱の言葉にも納得がいく。彼は既に宴に誘われ、且つ参加を表明していたのだろう。

 何を考えているのか分からない人物ではあるが、見た目の感情の無さとは比べ物にならないぐらい、新参者に対する情があるようだ。とはいえ、何も考えていない可能性も捨てきれないが。


「他のみなさんとも、お話が出来るといいですね」

「はい。まだ挨拶しか出来ていない方が多いので、頑張ります……!」

「お二人共、羽目を外しすぎないでくださいね」


 宴ともあれば、もう少し色々な人物と親交を深めることもできるかもしれない。と、意気込む夏侯覇とつられて気合いを入れる王平を眺め目を細めながら、姜維は笑みを浮かべるのだった。


 なお余談ではあるが、姜維は夏侯覇を探す為だけにあの地獄のような執務室から脱出してきたらしく、執務室には現在、姜維の代わりに費禕が安置されているらしい。姜維が執務室に戻るまでの数十分の間、仕事もせずに書簡の前に大人しく鎮座している費禕の姿を見た文武官達は、その異様な光景に声を掛けることもできなかったという。

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