二章 五
馬岱が遠征から戻って数日、昼前で少々慌ただしい執務室に声も掛けずに入室する人物の姿があった。執務室内で作業を進めていたのは馬岱らの報告書を纏めていた姜維であり、ちょうど部下が全て出払っていたため、当然ながら彼は無遠慮な侵入者に警戒したのだが――
「いやー参った参った」
そこに立っていたのはひと月前に漢中に戻った筈の費禕だった為、作業中の姜維は思わず手を止めてしまった。
「ず、随分と早いお帰りですね。火急の用ですか?」
「違う違う、すっかり忘れてたことがあってな」
漢中から成都までは、どんなに早い馬を使っても五日は掛かる。その距離を火急の用で戻ってきたのでなければ、この宰相は一体何の為に戻ってきたのだ。と、問おうとした姜維が口を開くよりも先に、満面の笑みを浮かべた費禕は声を上げた。
「明後日の夜、宴をする」
「……はい?」
「仲権殿の歓迎会のようなものだ。無礼講だから、君も気を楽にしていいぞ」
「…………それだけのために、戻ってきたのですか?」
勿論、と力強く頷く費禕の顔には、既に明後日の宴の事しか頭にないような緩い笑みが張り付けられていたため、姜維は肩を落とし力無く首を振った。
実は、夏侯覇の歓迎の宴なら、成都に着いてすぐに劉禅主催のものが行われていたのだが、それは所謂形式じみた儀式に近いものである。楽しく飲み食いする一般的な宴とは異なり肩肘を張って挑むもののため、楽しむ宴は別口でしたい――という事なのだろう。
「仕事は」
「片付けてから来た。何かあっても回せるように、何人か置いてきたから大丈夫だ」
「お気の毒に……」
漢中に滞在している文武官の姿を思い浮かべ、姜維はこれ以上ない程に同情していた。費禕の様子からも察せるが、この帰還は突発的なものだったのだろう。いくら費禕が人の数倍早く仕事をこなせるとはいえ、急に留守を任されたのでは堪ったものではない。しかも、行き来も合わせて最低十二日の留守番だ。
費禕は能力も高く、決して無責任な人間ではないのだが、妙な悪癖が多いのが玉に瑕なのであった。
「よし、さっそく集めてくるか。伯約も武官連中を見つけ次第、声を掛けておいてくれ」
「文官の皆さんはいいのですか?」
「あの酒量に付き合せるのは、流石に……なあ?」
費禕は元々文官のため、武官よりも文官に顔見知りが多く、親友も文官である。その費禕が文官への声掛けを指示しないなど考えられない事なのだが、武官の飲酒量を引き合いに出されれば姜維も納得せざるをえない。
殆ど飲まない姜維や、全く飲まない張苞などの希少種もいることにはいるが、武官の面々は総じて飲酒量が多く、酒癖が悪い者も少なからずいるのだ。今回は祝いの席のためその勢いも普段より増すことが考えられ、そこに文官を巻き込むのは忍びない。というのが、その辺の椅子に適当に座りながら語る費禕の主張であった。
「ああ……それもそうですね。仲文殿ぐらいでないと、潰してしまいます」
「そういうことだ。ま、適当に声を掛けてみてもいいぞ。興味本位で来たがる奴も、なくはないだろうしな」
夏侯覇の存在は、亡命からひと月以上たった今でも注目の的であった。古参の文武官の中には敵国の重鎮であった上、異例の出世をした彼に快くない視線を向ける者も少なくはないが、大抵の人間の視線の意図は純粋な興味とただの野次馬である。そもそも夏侯覇に不快感を抱いている人間は、姜維をはじめとした他の元魏将の面々に対しても始めは良い顔はしなかったのだから、その辺りは様式美と捉えるべきだろう。
姜維もそういった懐疑的な文武官とは仕事以外で接する機会を設けていない為、わざわざ声をかけようとは思わないが、だからといってただの野次馬根性で寄ってくる者と積極的に関わろうと思うほど楽天家でもなかった。
「怖いもの見たさ、でしょうか」
「さあ。仲権殿より、他の連中の方が余程珍獣だがな」
止まっていた手を漸く動かしながら費禕の軽口に付き合っていた姜維であったが、聞き捨てならない言葉に怪訝な目を向ける。一体誰を指して珍獣などと称すのか。と、口では言わなくとも、顔にはすっかり出ていた。
「……私は違いますよね?」
「よく言う」
「何故です!?」
珍しく声を荒げる姜維から逃れるように、費禕はにやにやといやらしい笑みを浮かべたまま執務室から出て行ったのであった。
その費禕が一枚の紙を片手に再び執務室に戻ってきたのは、日が傾き切った頃である。
「……お、珍しく安国が不参加か」
「侍中の皆さんは、手が離せないらしくて」
いくら慣れているとはいえ、費禕と比べれば政務をこなす速度が圧倒的に遅い姜維がその日執務室から出ることはなく、訪れた武官の十数名に声を掛けることでしか参加者を募ることは出来なかった。その際、偶然様子を見に来た関興にも声を掛けていたのだが、酒も祭りも好む彼にしては珍しく参加を断られてしまっていたのだ。
関興は詳しい内容を口にしなかったが、侍中が手を離せない用事など十中八九皇帝の劉禅に関連する用事に違いない。であれば、参加を強要することも出来ないため、費禕も大人しく引き下がったのだった。
「だが、他は軒並み参加だな……よしよし、いいぞ」
「……案外、大所帯になりましたね」
費禕が見せた参加者の一覧には、少なくとも四十人以上の武官の名前が並んでいる。姜維が声を掛けた者も併せれば五十人はゆうに超え、近年稀に見る大宴会になるのは誰の目にも明らかであった。
今回、夏侯覇の歓迎という名目で快く参加した者もいるだろうが、これだけの人数が集まるのだから無礼講の宴そのものに釣られてきた者も多いだろう。なにせ、無礼講の宴などここ五、六年は行なわれていないのだ。大事になるのは当然のことである。
しかし姜維には一点、どうしても気になることがあった。
「そういえば、仲権殿には伝えたのですか?」
参加者一覧に、夏侯覇の名前が無いのである。主役だから書く必要もないと言われればそれまでだが、これみよがしに出された書面に敢えて書かれていないことが妙に引っかかったのだ。
「ああ、会えなかったんだ。悪いが伝えておいてくれ」
「……主役にぐらい、最初に声を掛けておいてくださいよ」
「ははは、すまんな」
その問いを受けた途端、費禕は頭を掻くと全く悪びれずにそう返したため、姜維は怒る気力も湧かないほど一気に疲弊してしまう。それでも、わざわざ宴のためだけに戻ってきた呑気な上司に対し「自分で声を掛けろ」と言わない辺り、存外甘いのであった。