二章 四
その日は朝から軍が慌ただしかった。どうやら、北西方面の遠征に出ていた部隊が戻ってきたらしい。
宰相の費禕が漢中にいる今、成都での軍の最高責任者は姜維である。そんな彼への報告が朝から続いており、彼の執務室にはひっきりなしに将兵が出入りを繰り返していた。
「凄い事になってますね……」
「彼らは狄道方面へ出ていたんですよ」
「ああ、それなら納得です」
慌ただしく人が出入りする執務室を遠目に眺めながら、夏侯覇は関索と共に書庫の整理に追われていた。二人はここ数日忙しない姜維の手伝いのために早朝から執務室に訪れていたのだが、姜維はこうなることが分かっていたのか早々に二人に書庫の整理を頼むと、すぐに執務室に引き籠り激しい報告の渦中に巻き込まれていったのであった。
現在、狄道の辺りを制圧しているのは蜀と連携している羌族である。そして、その羌族と繋がり実質的に配下としているのが、今回遠征に向かっていた将軍らしい。
しかし、この時期にそんな事が出来る人間が涼州出身の姜維以外に居ただろうか。心当たりのない人物像に、夏侯覇は首を捻る。
「以前は馬孟起が羌を従えていたと聞きましたが、今はどなたが?」
「孟起殿の従弟、馬伯瞻殿が引き継いでおります」
馬超――西涼出身の将であり、蜀の五虎将軍に数えられた猛将である。彼は羌族との混血のため西涼方面に多く住む民族から信が厚く、馬超が蜀の臣となっても羌族などは積極的に彼に力を貸していたのである。
そんな馬超の死後、彼が集めた西の民族との繋がりを引き継いだのが、従弟の馬岱であった。
「馬伯瞻……馬一族の生き残りですね」
「ええ。夏侯将軍は、お会いした事はありますか?」
「ううん……多分、お会いした事はないと思います。馬孟起なら、二度ほど見ていますが……」
馬超が存命の頃、当然ながら夏侯覇は魏の将であった。当時の蜀と魏は頻繁に戦を行っており、特に漢中近辺を巡って対立が絶えなかったのだ。そして夏侯覇が担当していたのは西方、つまり対蜀であった為、蜀に帰順して間もない馬超の姿は戦場で見かけていたことがあるのだった。
錦馬超と呼ばれるに値するほど立ち振る舞いや装束は華やかながら、豪快な武を見せる男前な将だった――というのが、夏侯覇の数少ない馬超に関する記憶である。
「なら、驚くかもしれませんね」
「どういう事です……?」
「あ、ちょうど出てきましたよ」
「え…………えっ!?」
姜維の執務室から出てきた人物を視界に入れ、夏侯覇は酷く狼狽えた。
そこに居たのは、長髪をなびかせ、長い前髪で右目を隠した一人の少年。剣呑な視線を周囲に向けている姿こそ年季の入った大人のそれではあるが、それ以外はどこからどう見ても少年の容貌だったのだ。
「伯瞻殿、お疲れ様です!」
「……ん、維之か。お疲れ」
馬超の従兄弟であり、馬超が騒動を起こした頃には既に将として戦場に出ていた馬岱が、見た目通りの子供の筈がない。それどころか、夏侯覇や費禕よりも年長の筈である。
夏侯覇より頭半分ほど背が低く、姜維とほぼ変わらない背丈の関索より更に低い身長のその少年を見下ろし夏侯覇は言葉を失っていたが、言動だけは貫禄のある姿と若すぎる見た目年齢があまりにそぐわない馬岱の方は、夏侯覇の様子に眉を顰めながらもそれ以上の反応を見せることはなかった。
「…………そっちは?」
「先日魏より帰順された、夏侯仲権殿です」
「ああ……あんたが……」
魏の夏侯覇が亡命してきたという話だけは、遠征中であった将兵にも伝わっているらしい。納得したとばかりに何度か頷いた後、夏侯覇と視線を合わせる為に顔を上げた馬岱の表情には特に強い感情は浮かんでおらず、何を考えているのか夏侯覇には微塵も察せない。
その得体の知れない雰囲気に威圧感すらも覚えながらも、敢えて触れずに夏侯覇は拱手した。
「お初にお目にかかります、夏侯仲権です。宜しくお願い致します」
「ん、宜しく頼む。馬伯瞻だ」
馬岱もそれに続き、拱手を返す。
夏侯覇の記憶に間違いがなければ、馬岱は魏の人間に良い感情を抱いていないと考えられるのだが、夏侯覇がその対象に入っていないのか、大らかなのか、はたまた隠しているのか。馬岱は相変わらず無表情を貫いており、関索のように初対面から不信感を前面に押し出してくることはなかった。
「伯瞻殿は、しばらくお休みですか?」
「ああ。やっと、お守りをしなくて済む」
「あはは……本当にお疲れ様です。代わりは、どなたが?」
「伯恭殿だ。流石に、臨洮までだが」
「ああ、張将軍なら大丈夫ですね」
どうやら、今回新しく手を組んだ異民族の扱いにて手こずっているらしく、馬岱が直々に片っ端から腕試しをして心服させてきたのだという。それが余程疲れたのか、先刻までの無表情からうって変わって猛烈な疲労感を見せた馬岱は、話し終えると用事があると言って早々にその場を後にしたのだった。
「……驚きました?」
「ええ……それはもう」
関索の容貌ですら十分に驚かされたというのに、馬岱はその衝撃を軽く飛び越えてくるのだ。思い切り顔に出ていただろうが、あのような想定外の容貌の人物を目の前に出されては、顔に出すなと言う方が無理がある。
言動に貫禄があるとはいえ、あれでは生意気な子供に見えても仕方がない。異民族が舐めてかかってくるのも、必然だったのだろう。
「伯瞻殿は、軍で一番の力持ちなんですよ。多分、夏侯将軍も片手で持てます」
「……驚く要素しか、ないですね」
しかし、それだけで終わらない馬岱の武勇伝を関索に聞かされ続けながら、夏侯覇は書庫の整理に戻るのだった。