二章 三
「――という感じで、話してくれなくなってしまって」
「うーん……」
翌日、鍛錬場で関索と鉢合わせた夏侯覇は、前日の姜維の様子について相談していた。義兄である関索なら、姜維の反応の真意について何か分かるのではないかと踏んだからである。
一通り話を聞かされた関索は鍛錬用の木剣を握ったまま唸った後、しきりに周囲を見渡し人が居ないことを確認すると、囁くような声で夏侯覇に耳打ちする。
「……実は、伯約は北伐を強行しようとしたことがあるんですよ」
「本当ですか……? 初耳です……」
「ごく一部の者しか知りませんから。諸葛丞相が亡くなってから、蒋大司馬に信頼されて漢中に居た伯約は、北伐の重要性について度々説かれていたらしくて」
蒋琬とは、費禕の先代の宰相であり、諸葛亮の後継として大司馬まで上り詰めた男である。現在は病のため引退してしまったが、彼は比較的好戦的な人物であったらしく、引退直前まで大規模な北伐を行う準備を進めていたらしい。そして、その蒋琬の右腕として働いていたのが、あの姜維であった。
二人は相当に馬が合ったらしく、蒋琬は大司馬になり漢中に幕府を開くと、姜維に漢中の軍を任せるほど信頼していたという。更には、後ろ盾のない姜維を現在の地位まで押し上げたのも蒋琬であったため、姜維は深く恩を感じ蒋琬の志を継ごうと尽力していたらしい。姜維は先日「公琰殿に申し訳が立たない」と漏らしていたが、その言葉が表す通り、今もなお彼の行動原理の大部分を占める存在なのだろう。
「その結果、強行しようとした――と?」
「そうなんです。恩義のある蒋大司馬が成し得なかった北伐とその先を、なんとしても実現したかったんでしょうね。しかし、それも費将軍に止められてしまって……」
「……もしかして、昨日のあれは拗ねていた……とか?」
己がしたくても出来ないことをしつこく問われ、実は機嫌を損ねていたのではないか。そう早合点した夏侯覇は酷く狼狽した。が、関索は声を上げて笑うと、それは違うと一蹴したのであった。
「伯約は、そのぐらいで機嫌を悪くするような子じゃないですよ」
姜維は情が深く、自身に対する無礼はある程度許してしまう――というより、そもそも無礼と気付いていない事が多いらしい。そのため今回の夏侯覇の追求についても、困りはしても怒りはしない。というのが、義兄の推察であった。
しかし、ひとしきり笑い終えた関索は視線を落とし、でも……と歯切れ悪く言葉を続ける。
「正直なところ、北伐については僕達もよく分からないんです。思った事は割とすぐ口に出る子なのに、あれ以降一度も話題にもしなくなってしまったので、何を考えているのか……」
「一度も……」
やはり、費禕の提案に納得していないのではないか――実際の現場に遭遇していない夏侯覇では、そんな考えしか思い浮かばないのであった。
ひと月かけて姜維の人となりは見てきたが、彼は公の場では感情を抑えている節があり、私事で個人的に交流を図ると人並みに感情豊かである。当然、不満があればそれなりに顔に出るため、半月ほど前に酔った関興に数刻もの間しつこく絡まれ、やっと機嫌を損ねたところを夏侯覇も直に目撃していた。故に、昨日の態度が機嫌に起因するものでないのはなんとなく分かるのだが、まさかひと月程度でその人物のことが全て分る筈もない。
結局、姜維をよく知っている筈の関索でさえお手上げの状態の彼の心情は、実際の状況を知る以外に推測することすら出来ないのだった。
「差し支えなければ、その時の事を教えていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ」
――夏侯覇が蜀に亡命する、数年程前の話。
その日、関索は関興、張苞と共に執務室のやり取りを覗き見ていた。普段は大人しく上官に従う姜維が、費禕に対し熱心に何事かを訴えかけていたからだ。
「公琰殿は、民心を考えるのであれば、すぐにでも北伐を行うべきだと仰っておりました。私も戦略上、西は早めに取るべきだと思うのです。特に狄道は放置しては危険です、あの地は蜀漢の生命線といっても過言ではなく――」
この時の姜維は、引退した蒋琬に推薦され衛将軍・録尚書事になったばかりであった。それまで完全に上官であった費禕とほぼ同格まで上り詰めた事、そして自身で皇帝への上奏が可能な地位に就いた事で、満を持して費禕への直談判に乗り出したのだろう、と関索は考えた。
しかし、卓を挟んで対面している費禕は黙り込んだまま反応を返さない。大人しく姜維の話を聞いているのか、何かを考え込んでいるのか。関索らの位置からでは、彼の表情も真意も分からなかったのだ。
それでも姜維は熱心に訴え続ける。蒋琬に託された、先帝や諸葛亮から続く悲願を。何かに憑りつかれたかのように酷く焦燥しながら、それは熱心に。
「……伯約、出すなら一万だ」
その時、姜維の言葉を遮るように費禕が口を開いた。当然、関索達からは表情の確認は行えないままの為、どんな表情でその言葉を口にしているのかは分からないが、その声は至極真面目で落ち着いており、普段の飄々さを全く感じさせない。費禕が真剣に姜維の言葉に向き合おうとしているのかぐらいは、それだけで理解できるというものである。
反面、相対する姜維の表情は目に見えて強張り、言葉を詰まらせるのだった。
「文偉殿、それは」
「各地に兵力を割いている今、自由に使える兵はおよそ一万。それを全て君に預ける」
関索は始め、費禕の言葉を額面通りに受け取った。つまり、、費禕が姜維の北伐を容認した、と、思ったのだ。
しかし、姜維の表情は全く晴れず、どこか悔しそうにも見える。
「君なら、これがどういう意味か分かるな?」
「…………分かりました。貴方がそこまで私を信頼してくださるのであれば、私も貴方の考えに従います」
どうやら、費禕と姜維の問答は関索の想像よりも高位の次元で行われているらしく、費禕の意図するところも、姜維が何を感じ取っているのかも分からないのであった。しかし、ひとつだけ関索にも理解できることがある。
姜維が北伐の強行を諦めた――という事実だ。
これ以降、姜維は北伐に関する全ての事柄について、自ら口にすることはなくなったのだった。
「――という感じですね」
「随分と素直ですね……」
関索の話を一通り聞いた夏侯覇も、関索と同じく二人の問答の意味が分からず首を捻っていた。会話の外で費禕が何らかの条件を課し、姜維の北伐を容認しつつその条件を飲ませたことはなんとか理解できたのだが、いかんせん夏侯覇も関索も根っからの武人であり、頭脳戦というものはからっきしである。
結局、その条件が富国強兵だったのかもしれない――という予測を付けたことで、二人は納得することにしたのだった。
「伯約の性格を考えると、最低でも数ヶ月は粘ってもおかしくないんですが、あの時はやけにすんなりと受け入れてしまって……おかしいですよね」
「何か考えがあったんでしょうか……? でも、それにしては大人し過ぎるような……」
それよりも分からないのは、姜維の真意であった。
何故、あれ程熱心に訴えていたにもかかわらず、簡単に折れてしまったのか。結局、関索の話を聞いても、夏侯覇には何一つ理解が出来ないのだ。
いつか費禕に反旗を翻すつもりなのではないか。意地の悪い見方をするとついそう考えてしまいたくなるが、誰の目から見ても姜維と費禕の関係は非常に良好である。その上、二人は互いに互いの身の安全を第一に考えている節があるため、その可能性を排除せざるを得なかった。
「……ううん……全然、分かりませんね。そもそも、伯約殿の考えを私が暴けるはずもありませんでした。頭の出来が全然違います」
「夏侯将軍、よく分かっていらっしゃいますね!」
夏侯覇が両手を上げ降参とばかりに思考を放棄すると、考えるより先に体が動く関索は深く、それは深く何度も首を縦に振り、急に目を輝かせた。
「賢く強い伯約の考えが、僕達に分かるわけがないんです! そもそも伯約は幼い頃より勉学に励み兵法や武芸も会得し、お母上を支える為に仕官するまでは家畜の世話などの仕事をして、仕官してからも順調に長所を伸ばしそれはもう目を見張るというより僕も見たこともない槍使いで親孝行で知勇にも優れ性格も良く非常に優しく節制のできる最高の――」
身を乗り出して息継ぎすら忘れた様子で目に見えて興奮し、姜維に対する賛辞を矢継ぎ早に並べ立てる関索に圧され思わず夏侯覇が後退ったその時、夏侯覇の背後から声を掛ける者がいた。
「お、二人で鍛錬なんて珍し――うわ、失敗した……」
「あ、安国殿……これは一体……?」
不幸にも関索の暴走に巻き込まれに来てしまった声の主は、その関索の実の兄・関興である。彼の反応から関索の暴走はよくある事であるのは感じ取れるが、同時に逃れるのが困難であることも理解してしまった夏侯覇は、恐る恐る疑問を投げかける。
「あー……こいつ、伯約と義兄弟になってから……」
「お二人とも! 伯約の話をしているんですよ、真面目に聞いてください!」
「……こんな感じで、伯約を溺愛しててね……」
賛辞に夢中な関索に聞こえないよう声を潜めて話していた二人であったが、どうしても口の動きだけは誤魔化すことが出来ず、彼の怒りに触れてしまう。
義兄弟を溺愛する事自体は珍しくもなく、例えば蜀漢で最も有名な義兄弟である劉備・関羽・張飛の三兄弟は、互いに信頼し合い床を共にすることも常だったと聞いている。
しかし、今目の前で饒舌に話し続ける関索のそれは、兄弟愛よりも信仰へと化しており、正直なところ度を越えているとしか言いようがないのであった。故に、関興も苦虫を噛み潰したような顔で後悔を口にしたのだろう。
「な、なるほど。なんというか……凄いですね……」
夏侯覇自身は義兄弟もなく、兄弟に対しここまで溺愛して見せる人間にも馴染みがないため、あまりの壮絶さに月並みな感想しか口にできない。
結局、偶然通りかかった姜維に止められるまで関索の賛辞は続き、夏侯覇は暫くの間、関索の前で姜維の話題を口にすることを躊躇うほどの精神的外傷のような何かを負ってしまう事になったのだった。