二章 一
夏侯覇が蜀に入り、既にひと月が経過していた。
姜維に世話になりっぱなしであった生活面は既に安定しており、夏侯覇自身の収入のみで生活ができるようになっている。面白がって度々押しかけてくる関興やそれに追随する張苞、母の料理を運んでくる張紹、安定したにもかかわらず何かと心配して食糧や生活必需品を持ってくる姜維、初対面時の態度を謝りに来る関索等、多種多様な理由で邸に訪れる者が多い為、私生活だけで言えば毎日が慌ただしいながらも楽しむ余裕が出てきていた。
反面、軍での身の振り関してはまだまだ姜維の後をついて回る状況が続いているため、一人立ちとは言えない有様なのであった。
とある休日のことである。街の中を散策していた夏侯覇は、成都の商店街を見慣れた二人の男が歩いている姿を目撃する。
「今日はね、服五着ぐらいと髪留めと……」
「随分と買われますね」
「漢中にいる間に、結構消耗しちゃったんだよね。髪留めは壊れちゃったし」
その二人の男とは、関索と姜維であった。
関索は一週間程前、漢中に向かう費禕と入れ替わる形で成都に戻ってきていた。第一印象の悪さから戦々恐々としていた夏侯覇の心配を良い意味で裏切り、先述した通り初対面時の露骨な疑心を向けた態度について謝りに来る誠実さを見せていたため、僅かに生じていた確執は既に取り払われている。
そういった経緯から、関索に対する苦手意識も多少は薄れていた夏侯覇は、興味本位でつい二人の後をつけてしまった。
「ねえねえ、この服はどうかな?」
二人は服を見ているらしく、店先に並ぶ服を手に取る関索とそれを冷静に眺め評価する姜維、という男二人の奇妙な絵面が完成している。だが、こうして見ていると、二人は本当に仲の良い兄弟に見えるのだった。
「上等な服ですが……兄上には、少々女性的なのではありませんか?」
「え? 着るのは伯約だよ?」
「……え?」
離れた場所からも認識できる程、二人のやり取りはやけに目立つ。いや、目立つようになってしまっている。というのも、二人を眺める人間は夏侯覇のみではなく、商店街を行き交う人々も興味津々で二人を眺めているからなのだ。
軍神・関羽の子息である関索は成都に住む民には名も顔も知れ渡っており、姜維も国の将軍であるため顔を広く知られている。二人が義兄弟であることも知れ渡っているのかもしれない。怪訝な視線を向ける者はいないが、単純に存在が気になるのだろう。二人を眺める民は二人から円形に距離を取りながら見ている為、必然的に目立ってしまうのだった。
そんな事とは知らない二人は服を物色していたが、やけに華やかな刺繍の服を手にした関索は、姜維に止められる前に何着もの服を抱えて悠々と店主の元に向かう。当然姜維は大いに狼狽え慌てて止めに入ろうとするものの、あっという間に会計を済ませてしまった関索を止める暇もなかったようである。結局、先程関索が手にしていた華やかな刺繍が施された服だけは、姜維の手に渡っていたのであった。
その後も二人は商店街を進軍していき――
「この髪留め、綺麗だねえ」
「確かに、凄まじい意匠ですね」
「よし。おばさん、これ買うよ!」
「買いすぎでは……?」
全く何の迷いもなく手に取ったものを即断即決で買っていく関索の姿には、傍にいた姜維のみならず夏侯覇も呆気に取られるばかりであった。
蜀の地は鉄が多く採れる。それは、資源も人口も少ない蜀の、貴重な強みと言ってもいいだろう。魏ではそれほど多く採れない為、鎧なども壊さないよう気を遣っていた程であるが、蜀ではその豊富な鉄を使った鎧や生活必需品以外にも鉄製の装飾品なども出回っている。当然ながらそれらはこの商店街でも多く見られ、しかも比較的安く売られている事に亡命して間もない夏侯覇は驚かされた。
関索と姜維が見ていたのが、まさにその装飾品。戦の中でも壊れにくく丈夫な、彼らの長い髪を纏める為の髪留め――というわけだ。
「ここからー……ここまで、ください!」
「はいよー!」
「ちょっと待ってください兄上……!」
結局、必要な物なのだと姜維を言いくるめながら大量の服飾品や食料を買っていく関索の怒涛の買い物が終わった頃には、二人とも両手に荷物を抱えている状態になっていた。
そのあまりの量に夏侯覇も見かねて、偶然を装い手伝いを申し出ようとしたその時だった。
「あの、もしかして……維之様、ですか……?」
夏侯覇が一歩踏み出すより先に、店先に居た二人の元に一人の女性が飛び出したのだ。
「ん?」
「えっと、その……これを、受け取ってくださいっ」
「あ、ありがとうございます……」
顔を真っ赤に染めた平民と思われるその女性は、手に持っていた包みを関索に押し付けるが、関索は嫌がることも喜ぶこともなく、どう見ても呆気に取られている様子である。
その様子を眺めながら、夏侯覇は数日前の関興の言葉を思い出していた。
関索は女に妙に好かれる。街に出ると九割九分の確率で女に捕まるから、落ち着いて買い物もできない――そんな話を、血の繋がった実の兄が笑いながら酒の肴にしていたのだ。
「……なんで、物をくれたんだろう?」
「ご好意では?」
女性がその場を走り去っていくと、押し付けられた包みを見下ろしながら関索は気の抜けた声を上げる。冗談でもからかいでもなく素直に疑問を抱いている様子の関索に、姜維は慣れた様子で答えながら荷物を抱え直すが、そうかな、と返す関索は相変わらず呆けていた。九割九分はいくらなんでも誇張だろうが、この目で見た以上、関索が女性に好かれるという情報そのものは事実に違いない。
ところで、こんな調子で度々声を掛けられているのであれば、当然義兄弟である姜維は何度も関索に言い寄る女性の姿を見ていることになるだろう。しかし姜維は呆れた様子もなく、かといって助け舟を出すこともなく黙ったまま一部始終を眺めていたのだから、付き合いが良いのか悪いのか。なんとも奇妙な義兄弟関係だ、と首を捻る他ない。
「あ、伯約いる?」
「駄目ですよ兄上。それはあの女性が、兄上にくださったものではありませんか」
「でもこれ、伯約の方が使いそうだし」
「確かにそうですが……」
貰ったものを早速姜維に渡そうとする関索のとんでもない朴念仁ぶりと、好意に対する鈍感振り。そしてなにより、言い寄られて迷惑していると言わんばかりのその様子に、色男の本性を垣間見た気がした。
この男、基本的に女に興味がないのである。
いや、女どころか色そのものに全く興味を持っていない。関索が重視している情は、家族と同僚、皇帝に対するもののみ。実の兄が「このままじゃ、いつまで経っても嫁が来そうにない」と、冗談交じりに心配し嘆く弟の正体がこれなのである。関興の心配ももっともだ、と人ごみの中、夏侯覇は深く何度も頷いた。
結局、二人の前に出ていく機会を失った夏侯覇は、そのまま大人しく帰路に就いたのであった。