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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
一章
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一章 十

「お疲れ様です。邸までお送りします」


 邸を出た夏侯覇を外で待っていたのは、張苞だった。夏侯覇を邸まで案内した後は自室に戻っていたものと思われていた彼だが、会話を盗み聞きしないよう二人が話している間も庭で待っていたのだ。義兄弟である関興と比べると、張苞は生真面目なほどに慎重で律儀な人物であり、それは実弟の張紹も同じようである。

 しかし、まさか一、二刻程も外で待っていたとは思わなかった夏侯覇は、驚くと同時に恐縮してしまうのだった。


「まさか、待っていてくれたんですか……? ありがとうございます、子昂殿」

「子昂で構いません。母上が仰っていた通り俺も歓迎しておりますし……父上が亡くなってから塞ぎ込んでいた母上が、あのように喜ばれる姿は十数年振りに見ました。感謝しております」


 だから、従兄弟として気軽に交流してほしい――そう続け、張苞はあまり大袈裟に感情表現をしない表情を僅かに緩める。親戚にあたるとはいえ、元々は敵であったにもかかわらず随分と優しい従兄弟に恵まれたものだと呆気に取られながらも、その厚意が嬉しく思うのもまた事実。拒否をするのは忍びない、と、遂に夏侯覇は肩肘を張るのを止めたのだった。


「そうか……これから世話になるよ、子昂」

「はい、此方こそ宜しくお願い致します。仲権(あに)



 そんな二人の様子を木陰から眺めていた二人組がいたが、二人の内の片方が大きく溜息をついてその場に座り込む。


「――ほら、大丈夫だと言ったろう?」

「はぁ……良かった……」


 二人組の正体は、姜維と費禕であった。二人は夏侯覇と張苞が夏侯覇の邸を出た頃から尾行しており、邸内に入ってからも様子を窺っていたのだ。

 尾行を提案した姜維に付き合う形で野次馬をしていた費禕は、既に立ち去った二人から視線を外すと安堵からその場に座り込んだ姜維を見下ろし肩を竦める。その表情には呆れも混じっていたが、それは決して冷たい感情から湧き出るものではなかった。


「君も大概、心配性だな」

「心配もしますよ。亡命してきて間もないのです、何かあってはと思うと……」

「子昂がついているんだから、そんな心配はいらんさ」


 そのようですね、と呟き姜維は立ち上がると、足元の砂埃を叩き落とし身を整える。


「さて、伯約が納得した事だし……少し飲むか」

「は?」

「飯の美味い店を知っているんだ、たまには付き合え」


 姜維は咄嗟に費禕に向けて剣呑な視線を投げていた。二人が尾行を始めた頃は真上にあった陽も既に傾き始め、そろそろ夕餉の時間に差し掛かっている。とはいえ酒を飲み始めるにはまだ早く、そもそも酒を好き好んで飲むことのない姜維にとっては、日の出ている内から飲む事自体ありえない提案であった。

 だが、尾行に付き合わせた手前誘いを拒否することは躊躇われたらしく、深く大きな溜息と共に首を縦に振るのだった。


「……分かりました。ただ、酒は飲みませんよ」

「ああ、君は悪酔いするんだったな」

「殴ります」

「おいやめろ、君の拳は洒落にならん」


 軽口を叩く費禕に対し、姜維は一切表情を変えずに拳を握り締める。立場上、上司であり姜維より年長でもある費禕だが、彼は元来文官。つまり、軍の統率力のみならず個人的な武力も高く評価され、武官として名を馳せている姜維に物理的な力を行使された場合、全くと言っていいほど勝ち目がないのだ。流石に戦闘態勢に入る将軍を目にしては、誰の前でも飄々と振舞っている宰相も僅かながら焦りを見せざるをえない。


「……冗談です」

「まったく……君の冗談は、この上なく心臓に悪いな」

「貴重ですよ?」


 費禕からのからかいに一矢報いたことで満足げに笑みを浮かべながら拳を下ろした姜維は、ふふんと鼻を鳴らしながら胸を張る。そんな、なかなか見れない姜維の自信満々な物言いに乾いた笑いを漏らし「その姿を記録に残せないのが残念だよ」と語る費禕は、すぐにいつもの調子を取り戻しからからと笑いながら店の方向に向かって歩き出した。


「貴重ついでに、酒にも付き合って差し上げます」

「……明日は槍でも降るのか?」

「文偉殿が仕事をしなければ、拳は振るでしょうね」

「言うようになったな」


 お陰様で、と答えながら後を追うようについてくる姜維に振り返った費禕の顔は、僅かとはいえ驚きに染まっていた。節制を好み、宴ですらほとんど酒に手をつけない姜維が進んで酒に付き合うなど、前代未聞である。対して、姜維の表情にはこれといった変化が見られず、普段より得意げに少々口角を上げている程度であったことから、機嫌が良いのであろう事は費禕の目にも見て取れた。余程、夏侯覇と月姫の再会が穏便に済んだことが嬉しかったのだろう。

 魏からの投降・亡命者としての仲間意識なのか、夏侯覇に対し姜維は随分と親身になっているようであった。一部を除きあまり積極的に他人に関わろうとしない姜維にしては珍しいことであるが、彼の周囲には呼ばずとも寄る者ばかりの為あまり比較にはならない。気まぐれか心境の変化か判断は付かないが、良い方向に変わるのなら敢えて止める必要もないだろうと費禕は勝手に上機嫌になっていたのだった。


「よし、今宵は酔い潰してやろう」

「謹んでお断り申し上げます」


 つれない態度を取りながらも律儀に杯を交わすのが、姜維という男である。だが、費禕に散々酒を飲まされ何か失態を晒したのか、翌日の政務中ぶつぶつと文句を口にしている姜維の姿を多くの文武官が目撃することになるのだった。

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