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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
一章
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一章 九

 成都の街の一角、とても外戚の自宅とは思えないほど簡素な邸がそこにはあった。

 今は母と息子二人で住んでいるその邸には、使用人の姿も見えず静寂を保っている。張苞に案内され邸の庭に入った夏侯覇は、邸を飾るように植えられている花々を眺めながら叔母との再会に向けて密かに意気込んでいた。


「母上、お連れしました」

「どうぞ、お入りになって」


 邸に入ってすぐ、居間にあたる部屋にその女性は居た。長い黒髪を長し窓際で椅子に腰掛けている姿は、加齢による多少の差異はあるものの夏侯覇の記憶の中のその人と寸分違わず、二十余年経っていることを忘れさせる。

 それほど、その女性の纏う雰囲気は少女であった頃と何も変わっていなかったのだ。


「……叔母上! お久しぶりです!」

「ああ……仲権……! 立派になって……!」


 夏侯覇は思わず月姫のもとへ駆け寄っていた。月姫の雰囲気が昔と変わらなかったからだろうか。夏侯覇自身、己の心がまるで幼少の頃に戻ったかのような錯覚を覚えたのであった。

 しかし、存在を確かめるように握った叔母の手は、幼い頃はあれほど大きく感じたにもかかわらず、今では己の手の中にすっぽり収まってしまうほど華奢で小さく頼りない存在になっていた。それは、二人の間にも相応の年月が過ぎていたことを感じさせる。

 叔母が頼りなくなったのではなく、夏侯覇が成長したのだ。


「まさか、生きてお会いできるとは……!」

「あれから二十余年だもの、そう思うのも無理はないわ。文の一つも出せず、お父様達にもご迷惑を……」

「いえ、仕方ありません……ですが、私だけでもお会い出来て良かった」


 縋るように膝をついていた夏侯覇の頭を子供の頃の様に軽く撫でながら、月姫は何かを躊躇うように何度か息を飲む。いい年をして頭を撫でられていることに何とも言えない羞恥を抱いていた夏侯覇だが、叔母の様子が緊迫したものに変わったことから結局拒否もできず、大人しくされるがままになっていた。


「お父様とお母様は、どうされているの……?」

「それが…………叔母上が行方をくらませて十数年程で、お二人とも……」

「そう、なのね……あなたが此方に亡命してきたと聞き、一族が危うい事は覚悟はしていたけれど……」

「私と泰初以外なら悪い扱いは受けていないとは思いますが、今となっては私も詳しくは……すみません」


 項垂れる夏侯覇の頭を撫でたまま、月姫は瞳に涙を滲ませる。既に母国に身内が残っていないことを悲しんでいるのだろうと夏侯覇は納得したのだが、だからといって慰めの言葉が浮かぶわけでもない。覚悟をして何もかも捨ててきた自分と、覚悟もなく何もかも手放さなければいけなくなった彼女では、似ているようで状況は大きく異なるのだ。


「いいえ、あなたが謝る必要はないのよ……こんな形であっても、(わたくし)は仲権に再会できて嬉しいわ」

「私もです、叔母上」


 大きな感情を堪えながらも遂に涙を零した叔母の笑顔は、美しさよりも悲壮感に満ちていた。



「――仲権は、これからどうするの?」


 漸く落ち着いた月姫は夏侯覇を座らせ、茶を出しながらそう切り出した。「悪いことにはなっていないと聞いたけれど」と付け加えたことから、彼女がこれまでに夏侯覇の処遇についての詳しい話を聞かされていないことが窺える。張兄弟が敢えて黙っていてくれたのだろうか。そう夏侯覇は疑問を抱きつつも、二人の気遣いに深く感謝したのだった。


「この国の将として、召し抱えられる事になったんです。だから、暇が出来たら会いに来ますね」

「そうなのね……! もう、官位はいただいたの?」

「ええ、車騎将軍に任命されました」


 月姫は鸚鵡(おうむ)返しのように官位を反芻し、言葉を失っているようであった。その姿を眺め、これが本来あるべき反応ではないだろうか、と夏侯覇は妙な安心感を得る。

 外戚であるというもっともらしい理由があるとはいえ、やはりこの官位はおかしいのだ。が、亡命後夏侯覇の周囲に集まる蜀の諸将は良く言えば豪胆なのか、とにかくまるで動揺しない者ばかりであり、動揺したとしても一般人と比べ反応が希薄である。戦場では頼もしい性質に違いないが、不安になる程彼らの肝の据わり方は尋常ではなく、そう思い返すと目の前の叔母の反応は安心できるのだ。


「驚くのも無理はないですよね。私も正直……ですが、陛下は己の身内ならこの地位でも低いのではないか、と悩まれたとも聞いています」

「陛下がそこまで……仲権は凄いのね」


 自分ではなく、蜀の人間が妙におおらかだからこの結果になったのではないか――とは言えなかった。叔母からの尊敬と期待の眼差しが熱烈だったため、つい怖気づいてしまったのだ。

 己は大層な人間ではないと謙遜するのは簡単だが、易々と謙遜するな、と常日頃父から咎められていたことは、果たして良かったのか悪かったのか。子供の頃は気の弱かった夏侯覇を右将軍という高官までのし上げたのは、父の教えのおかげでもあったのかもしれない。

 そんな夏侯覇の心情を知ってか知らずか、月姫は微笑みながら口篭る夏侯覇を眺めていたが、ふと思い出したように声を上げる。


「そういえば、苞と紹とはもうお話をしたかしら?」

「ええ。とても理知的で気の利く子ですね、彼らは」

「変わった子だけど、苞も紹も自慢の息子なの。何か困った事があれば、二人に聞いてちょうだいね。あの子たちも従兄が出来て、喜んでいたから」

「はい、頼りにさせてもらいますね」


 二人の面識自体は非常に少ないため互いの間にさほど積もる話があるわけではないが、それでも夏侯淵や夏侯惇のこと、他の夏侯一族のこと等。己の居ない間の年月を埋めるように月姫の問いかけは終わらず、二人の話は尽きなかった。

 ――そういえば、身内の話を誰かにしたのは久しぶりかもしれない。

 数年前に兄の夏侯衡(かこうこう)が没したことにより、己より上の世代はほぼ居なくなっていた夏侯覇にとって、事務的ではない報告――つまり、子供の様にそれまでの出来事を誰かに報告する、といった行動自体が非常に懐かしいものであったのだ。


「――さて、長くなってしまいましたね。今日はありがとうございます、叔母上」

「いいえ。あ……こんな物しかないけれど、どうか持っていって」


 席を立とうとした夏侯覇をその場に待たせ、月姫が隣室から持ってきたのは深い器に入れられたいくつかの饅頭と、袋に詰められた米であった。これまでの生活を、姜維の厚意で分けて貰っていた米や小麦で賄っていた夏侯覇は、思わず破顔するほどの笑みを浮かべ頭を下げる。


「助かります! 邸はいただきましたが、まだ生活するには不安で」

「まあ……ふふ。食事でよければ、いつでも歓迎するからいらっしゃい」

「そうですね、また近々お邪魔させてもらいます」


 それまでは緊張がどうしても抜けなかった夏侯覇がすっかり肩の力を抜いたことで、月姫もつられるように少女の様な微笑みを見せながら見送った。

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