一章 八
「おや……これはまた、そうそうたる顔ぶれがお揃いですね」
賑わい始めた面々につられるように邸の奥から顔を出したのは、家具の搬入と設置を手伝っていた姜維。玄関の掃除からなかなか戻らない夏侯覇を心配して出てきたのだが、玄関先にたむろするむさ苦しい情景に一瞬にして状況を理解したのであった。
「よっ、ここにいたんだな。十日ぐらいぶり、伯約」
「俺達は三月程か、久しぶりだな」
「ええ。お久しぶりです、皆さん」
漸く三人を居間まで案内し落ち着いて夏侯覇が茶の準備を進めている間、姜維と彼らは暫くの間会っていなかったらしく四人は再会を喜ぶ。それに特に気を悪くすることもなく微笑ましく眺めていた夏侯覇であったが、とある人物の話題が上がると反射的に身を強張らせた。
「そういえば、索は戻ってないのか?」
夏侯覇は、漢中に滞在している間己への警戒を解かなかった関索に少々の苦手意識を抱いていた。とはいえ、全く警戒しない最高責任者の方も問題であるため、一概に警戒を解かない関索の態度が悪いとは言えないのだが、それでも戦場以外で特定の人物に敵視され続けるというのはあまりいい気分はしないものである。彼は姜維の傍にほぼ必ずついていたため、遭遇率が高いのも問題であった。
「兄上なら漢中で留守番です」
「あいつが伯約について来ないなんて珍しいな……向こうで女でもできたか?」
「まさか……ついていくと言って聞かなかったので、説得するのに苦労しましたよ」
疲労感がぶり返すのか溜息を漏らし首を振る姜維に、労うように笑いかける関興であったが、その笑い声は乾いているように見える。
初対面時の関索は、距離感が異様に近いながらも姜維には兄らしく振舞っていた印象があった。だが、漢中を発つ際の関索のぐずりようは夏侯覇の目から見てもそれはもう酷く、泣きながら姜維にしがみ付いてなかなか離れないといった、完全に駄々をこねる子供のそれであったのだ。関興の口ぶりでは、それは今に始まったことではないのだろうが、とても猛将として名の通っている大の大人の行動ではない。
血の繋がった実の兄であっても、関索の子供のような行動は理解しかねるのだろう。そういう意味では、関興は間違いなく精神的に成熟しているのが見て取れた。
「安国殿は、維之殿と比べると随分と……」
「軽いんですよ」
「あ、いえ……そうでは……」
話を流された仕返しとばかりに関興の評価を切って捨てる張苞の言葉には大いに同意できるが、夏侯覇が突っ込みたかった部分はそこではなかった為、首を縦に振ることはできなかった。が、当然ながら関興は、張苞と夏侯覇の二人に対して不満を露わにする。
「あー! 謁見の時、仲権殿を重用しましょうって提案したのはおれなんですよ? もっと感謝してほしいなあ!」
その上矛先は夏侯覇に向けられてしまったのだが、そこで思わぬ恩人の存在が判明したのであった。関興の口からそんな提案が出るとはにわかには信じがたいが、情報の共有程度はされているであろう同じ侍中の張紹が特に反応を示さないところを見ると、彼の言葉に偽りはないようである。どんな意図で重用するべきと説いたのかは分かりかねるものの、彼がそれを提案していなければ今頃この身はどうなっていたのだろうか。そう考えれば、夏侯覇も素直に彼に感謝する他ない。
「あの時、そんな話をしていたんですか……ありがとうございます、安国殿」
「いえいえ、どういたしましたー!」
「……軽いんですよ」
「はい……」
しかし、張苞の言う通り関興の反応はあまりに軽い。茶を出していた夏侯覇は、その喜怒哀楽の落差に体の力が抜けそうになりながら、関興には聞こえない程度の小声で漏らす張苞の言葉に頷いたのであった。
「ちなみに、仲権殿を車騎将軍に推薦したのもおれ」
「ああ、やはり安国殿の仕業でしたか」
機嫌を直したのか、出された茶を飲みながら関興は意気揚々と暴露を続ける。そう簡単に外部に漏らしていい情報なのかと夏侯覇は問いかけようとしたが、この場に居る人間全てが夏侯覇の関係者である為、その辺りはしっかり考慮されているのだろう。規律には煩そうな印象がある姜維も話に付き合っているところを見ると、こんなものでもいいのか、と妙に納得してしまうのだ。
「しかし、何故車騎将軍に……?」
「だって仲権殿、魏では右将軍だったんでしょ? まさか魏より低い位にするわけにもいかないし、とはいえ大将軍は無理だし、衛将軍も驃騎将軍も埋まってるし――ってなったら、あとは車騎将軍しかないじゃないですか」
確かにその通りだ、と各々頷いて同意して見せれば関興は自慢げに鼻を鳴らす。外戚にあたる人物を低い位に置けないのは夏侯覇も分かっていたが、魏の右将軍であったことまで後押ししていたとは思いもよらず、その場の人物中最も深く頷き理解を深めたのであった。
「そのおかげで、伯約が世話できる立場になったんだから、良かったじゃん?」
「そこまで考えていたのですね……何故私に降将の世話をさせるのか不思議でなりませんでしたが、そもそも私に世話をさせる為の人事であったとは」
「でもこれ、文偉殿からの要請だからな?」
決めたのはおれと陛下だけど、とも関興は続ける。
何故、姜維に世話をさせることに拘っているのか。夏侯覇は勿論、姜維にも皆目見当がつかないようである。だが、夏侯覇は世話になっている以上迂闊に口を出すことができず、姜維は姜維で「あの人は……」と呆れたように溜息を漏らし疑問を抱いている様子もあるものの、嫌がる素振りは見せないため、一応は素直に受け入れているようだった。
「根回し上手いよなあ、流石は蜀一の切れ者だぜ」
「費将軍は、そのような事もされるんですね」
「あの方がここまでする相手は限られていますよ。立場上、一個人に対してそんな事を毎回やっていられる程、暇な方ではありませんから」
二度目の謁見の際、費禕が動揺するどころか満足げに笑っていたのは、彼の上奏が通ったからだったのであろう。のらりくらりとしていた宰相がそんな根回しをしたとは思えず、現実味のない事実に覇気のない声を上げてしまった夏侯覇であったが、あくまで特例なのだと張紹は念を押す。
しかしそれはそれでまた、夏侯覇にはまるで実感のないものであったのだ。
「そうですか……?」
「仲権殿……貴方を相手にする時、文偉殿はその日の政務を全て終わらせてから部屋に向かっていたのですよ」
漢中で費禕の世話になっていた数日間、費禕が夏侯覇の部屋を訪れたのは決まって昼過ぎだった。宰相である人物が、午前で終わる程度の仕事を抱えているわけがない。となれば、費禕は宰相特有の膨大な仕事を午前で済ませる程の、驚異的な処理能力を持っているという事なのか。
魏の宰相が常に仕事に追われている姿を見ていた夏侯覇にとって、その発言は信じがたいものなのであった。
「……冗談ですよね?」
「本当です」
しかし、姜維は至って真面目に首を振り、張苞、張紹、関興までもが姜維に同意する素振りを見せた為、信じざるを得ない状況に追い込まれる。超人か何かか、と小さくぼやく夏侯覇を見て、その場の全員が深く頷くものだから、諦めて費禕の評価を改めるしかなかったのであった。




